2015年9月22日火曜日

安保関連法案における世論調査の偏り (修正版)

寝ている間に安保関連法案が参院本会議で可決されていた。
もっと野党に粘られるかと思いきや(実際に長々演説したり、山本太郎がおかしなことをしていたりと抵抗はあったのだが)、案外すんなりと決まった模様。
野党の我が儘に付き合わされるハメになった警備員の方々等、本当にお疲れ様でした。


さて、今回は世論調査の話題。

先日、私が見物してきた新潟駅までの安保関連法案反対デモで、

「6000万人が反対している!」

などと主張していた。

根拠は、報道機関などが行った世論調査で、50%超の反対という結果を見てのものだろう。
しかし、この主張は正確ではない。

ここに、参院で採決が行われる前に、テレビ朝日の報道ステーションが行った世論調査の結果がある。
http://www.tv-asahi.co.jp/hst/poll/201509/index.html

安保法制の項目で、安保関連法案に賛成か反対かという項目を見ると、

 賛成:25%
 反対:54%
 わからない、答えない:21%

とある。
これを見ると、過半数の人間が安保関連法案に反対しているという風に思える。

ところが、ページの上の方に注目して頂きたい。
小さくこう書かれている。

【対象】1000人【有効回答率】50.7%


 有 効 回 答 率  50.7 %


少なすぎないだろうか?

他社のものや今回以外の調査における有効回答率がどの程度なのかもわからないし、そもそも何をもって「無効回答」とみなしたかもわからない。
選挙での無効票であれば、名前の書き間違いや白紙投票などがあるが、メディアが行う電話による世論調査なら間違いは訂正できるし、回答内容に「わからない、答えない」とあるので、無回答は含まれない。
となると、そもそも調査に協力してもらえなかった(あるいは電話に出なかった)人が1000人の中の49.3%=493人いたと考えるのが自然だろう。

1000人に電話をして、507人が回答したという解釈で話を進めよう。
推測統計における必要なサンプリング数というのは1500~2000とも、1000くらいで十分とも言われるが、507はさすがに少なくないだろうか?
しかも、対象者1000人の内、ほぼ半数の意見が反映されていないのだ。

また、調査対象者の属性がそもそも偏っている恐れがある。
Wikiによれば、このような電話による世論調査はRDD方式と呼ばれ、乱数計算で生じた固定電話の番号に電話をかけるというものだそうだ。
しかし、現代日本の特に若者中心の家庭では、そもそも固定電話を置いていない家もあることが想定されるが、こういった家に済む国民は調査の対象から外されることになる。
また、調査を行った時刻が明記さえていないのも問題だ。
世論調査を行う側の人間も仕事でやっていることを考えれば、実施しやすいのは平日の昼間だろう。
しかし、現代では夫婦共働きも多く、平日の昼間に回答できるのは専業主婦かお年寄りに偏る。
あるいは、平日の夜や休日にかけたとしても、そもそも電話に出るのは女性が多いのではないか(ソースはサザエさんとかドラえもんとか)。
そういった時に、性別や年齢といった属性を揃えるために、回答してもらう相手の指定などしているのだろうか?
判然としないことが多く、どうにも信用するのが難しい。


とにかく、明白であることを述べて、この話題をまとめよう。

報ステ世論調査の結果から言えるのは、安保関連法案に6000万人が反対しているということではない。
1000人に意見を聞いたところ、274人(1000✕0.54✕0.507)が反対を表明したということに過ぎないのだ。
つまり、明白に法案に反対しているのは、過半数ではなく、4人に1人程度ということになる。


そして、この主張を裏付けてくれるデータが存在する。
参院における採決の後で行われた、ニコニコアンケートだ。
http://enquete.nicovideo.jp/result/20

質問の聞き方がどうにも反自民的なのが引っ掛かり、これはこれで結果に影響するバイアスになるのだが。
ともあれ、「安保関連法案が今国会で成立することをどう思うか?」という設問の回答が以下のものだ。

 良かった:49.2%
 悪かった:27.2%
 わからない:23.6%

興味深いのは2点。
1つは、報道機関が行う電話調査における賛成・反対の割合が、ネット調査では丸っきり逆転したという点。
もう1つは、ニコニコアンケートにおける安保関連法案に反対する意見の割合は、報道ステーションの調査において実際に反対意見を表明した人の割合と一致したという点だ。

逆転現象は、やはり調査対象者の偏りが原因だろうか。
ニコニコアンケートは、調査対象者を限定したり、また逆に希望する人全てが必ずしも参加できるものではない。
アンケートは予告なく唐突に実施され、その時偶々ニコニコにアクセスしていた人の中から、参加したい人が参加する、参加したくなければ参加しなくても良いというものだ。
この方法の利点は、手間と時間をかけずに多くの人から意見を聞くことができることにある。
報道ステーションの調査における有効回答者がわずか507人だったのに対し、今回のニコニコアンケートの参加者は56394人。
100倍以上の人の意見が反映されていることになる。
一般に、推測統計は標本サイズが大きいほど誤差は小さくなるので、調査対象者が少なかった報ステのものとの比較に有意義だと言える。

ただし、ニコニコアンケートの調査方法にも問題点はある
ひとつには、有効回答率がわからないことだ。
今回は56394人が調査に参加したが、参加する機会があったにも関わらず参加しなかった人がどれだけいたのだろうか。
これはメディアの電話調査にも言えることだが、そもそも調査に参加する意志のあるなしが、結果に影響するバイアスとなってしまう。
ネット調査の場合、調査実施時点でのアクセス数を調べることはできるかもしれないが、しかしアクセスしつつ気付かなかったり、席を外していたりといった人もいただろうから、有効回答率の算出は不可能だろう。
ふたつ目の問題点は、ニコニコを利用する人というのが、そもそも属性を偏らせていることだ。
ニコニコ利用者=ネットをある程度以上に利用する人の多くは、民主党・共産党・社民党あたりが大嫌いだ。
これはネットを活用することで、サヨク仲間のマスゴミが隠そうとする野党の悪い点を知ってしまうこと、もしくはネット上におけるサヨク叩きの風土から、ネットに参加するものとして自分もサヨクには批判的にならねばという社会的役割や同調行動の影響などが考えられる。
調査参加者の多くが安保関連法案に反対している野党に対して不信感を持っている以上、安保関連法案の賛成意見がマスコミの調査より多くなるのは予想できたことなのだ。
それに加えて三点目、先にも軽く触れたが、設問の聞き方が与党に対して批判的なものだったこと。
質問文はそれ自体がバイアスを生み、与党に悪印象を抱かせようという聞き方をすれば、採点は辛口になるか、あるいは質問者の態度に反発して逆に大甘な採点をしてしまうなど、偏った結果を生じさせてしまう。
残念ながら、今回のニコニコアンケートの結果が世論を正確に反映していると主張することは難しいだろう。


しかし、反対意見の割合が、報ステとニコニコの両調査で一致したというのは面白い。
先述した「報道ステーションの調査で実際に反対意見を表明したのは27.4%に過ぎない」というのは、無効回答を無視した上での数字だ。
もしも無効回答者が単に電話に出られなかっただけだとするなら、無効回答者における反対意見の割合は、有効回答者の割合と同じになるはずだ。
にもかかわらず、無効回答者の中の反対意見を無視した「実査の反対表明割合」が、ネット調査における反対意見と一致したのは何故だろう?

考えられるのは、報道ステーションの調査における無効回答者は、偶然に回答できなかったのではなく、必然的に回答をしなかった偏った属性の持ち主であるという可能性だ。
報道ステーション=テレビ朝日と言えば、サヨク・反日メディアとして悪名高い。
そんな彼らに、電話番号を知られ、自分が右翼かどうかを試すような質問をされている。
身の安全を考えて、回答自体を拒否したということはないだろうか。
その点、ネット調査は匿名性が高く感じられるので、回答しやすいと予想される。

ここで、報道ステーションの無回答者の中に反対意見がほぼ存在しないという前提で、無回答者の意見を予測し、調査対象者全体の世論を推測してみたい。
まず、「反対」は実際に反対表明をした割合そのままで27.4%。
次に「わからない」もそのまま21%とする。
すると、残る賛成の割合は51.6%だ。
あくまで推定に過ぎない数字だが、ニコニコアンケートの結果にかなり近くなった。



テレビや新聞は連日、大規模な反対運動の様子を取り上げている。
それを見ていると、大多数の人間が法案に反対していると思い込んでしまいがちだ。
しかし、実際、自分の身近な人の意見などはどうだろう?
法案に反対している人は過半数を超えているだろうか?

新潟駅のデモを見に行った時。
普段通りに駅を利用していた人は、集会を素通りして行った。
チラシ配りなどもやっていたが、まったく受け取って貰える様子もない。
これが現実。
安保関連法案に反対しているのは、単なるノイジーマイノリティなのだ。
ほとんどの人間は、わからないとか、どっちでもいいとか、そんな風に考えている。
または、自民党の支持率が他党より圧倒的に高いことからわかるように、自民党のやることに任せているとか、信用出来ない政党が反対している法案は逆説的に好印象を持つといったところだろうか。

今法案に反対している人間は、メディアが報じるほど多くはないだろう。
しかし、現状で「わからない」という立場の人が、世論調査や法案に否定的な報道に影響されて、反対の立場をとるようになることもあるだろう。
民主党政権が樹立した時の過ちを、日本人は繰り返してはいけない。



まとめ

世論調査には様々なバイアスが影響している。
そのため、世論調査は真の世論を反映してくれるものではない。
あくまでも、「ある組織・団体が世論調査を行ったところ、その調査の範囲ではこういう結果になった」程度の参考にしかならないということを覚えておかなければならない。
自分が賛成している法案、支持している政党があっても、「世論調査で反対・不支持が多数です」と言われれば、自分の考えが間違っているのではないかと不安にもなるだろう。
もちろん自分が間違っている場合もあるので、「誰が何と言おうと自分の考えは曲げない」と固執することが良いとは言い切れない。
そういう時は、やはり一度冷静になり、世論にも自分の信念にも振り回されること無く、様々な情報に触れ、本当に正しいと自分が思うものはなんなのかを見つめていくしかない。

(それにつけても、やはり報道ステーションは最悪だ。21日の放送を久々に見たが、偏向報道をした上に新聞やテレビなどから情報を得ましょう」などと世論誘導する気まんまんだった。報道ステーションは、2ちゃんの実況板と一緒に見たほうがいい)

2015年9月18日金曜日

祝・安保関連法案可決 ~情けは人の為ならず~

安保関連法案の参院での審議がようやく打ち切られ、ほぼ全会一致(笑)で可決した。
与党が過半数を占めている以上、民主党が何らかの方法で自民党と交渉をしなければ、可決するのは分かりきっていたことだ。
自民党はよくもまぁ長々と付き合ってやったものである。

政権時に21回も強行採決をやっていた民主党なら、もっと早く審議を終わらせていただろう。
何の法案の時だったか、自民党の議員が普通に質問か何か発言をしようとしていたのに、無視して採決を始めた手際の良さには呆れ果てたのを覚えている。
民主党が自民党の話を聞く気がないのは、与党でも野党でも変わらない。
集団的自衛権の必要性は、岡田代表も野田元首相も認めているのだ。
にもかかわらず民主党が「戦争法案」と呼んで反対しているのは、単に自民党に反発したいだけに過ぎない。
議論において、何にでも反対する人間というのは、議論を深める上で一定の価値がある。
しかし、ただ反対するだけで議論をする気のない民主党には、国会に参加する資格がない。

民主党の批判を始めたらキリがない。
福山哲郎議員は「暴力的な採決」と批難したが、暴力的に採決妨害をしていた連中が何を言うかという話であり、帰化人である彼がこういうことをしていれば敵国の工作員とみなされるのもやむ無しである・・・など。
キリがないので切り上げて、改めて今回の安保関連法案の必要性について考えてみたい。



以前も述べたが、野党が指摘しているように、今法案に対する政府の説明は十分とは言えない。
結局、何故必要なのか、今必要なものなのかがはっきりしないのだ。
おそらく、必要な理由というのは複合的なモノであり、理由をひとつひとつ説明したのでは、逆に納得できなくなるものなのかもしれない。
「全体は部分の総和よりも大きい」・・・ゲシュタルト心理学の言葉である。

私が安保関連法案=集団的自衛権の容認について、その必要性をひとつ説明するとしたら。
日本と密接な関係にある国を守ることは、日本を守ることにつながる」からである。

民主党の岡田代表は、北朝鮮が米国を狙って弾道ミサイルを発射した場合、日本は集団的自衛権を行使できない現行法制では撃墜することはできず、そのために法制を改める必要もないとの認識を示した。
しかし、実際に米国が核攻撃でも受けたらどうなるだろう?
多くの米国人が犠牲になる、だけではない。
工業地域や商業地域でも破壊されれば、経済的に大打撃を受ける。
それは直接、日本企業の工場などが破壊される事態となるかもしれない。
そうでなくても米国の株価は大暴落、リーマンショックどころではない世界恐慌に陥るのではないだろうか?
世界恐慌となれば、日本でも企業は次々に倒産し、失業率は跳ね上がり、自殺者も大量に出るだろう。
また、米国が世界の警察として機能しなくなれば、ロシア・中国・中東などが支配領域の拡大を図り、第三次世界大戦勃発の恐れもある。
そうなった時、手負いの米国と戦争アレルギーの日本で、ロシアや中国の脅威から国民の命と、財産と、尊厳を、守ることができるだろうか?

と、最悪すぎるケースを想定してみたが、いかがだろう?
さすがにそこまでの事態にはならないかもしれないが、しかし最悪のケースが起こりうる可能性を過小評価し、スーパー堤防を事業仕分けしたのが民主党であり、従来の堤防が決壊したのが鬼怒川である。
最悪すぎるケースを想定し、事前の準備と、事態が起こってしまった時にどのような対処ができるのかは決めておくべきであり、それができていなかったのが阪神大震災だった。

デモに参加した不倫は文化な人は、「個別的自衛権でも日本は守れる」と言った。
確かに暴力から守るだけなら可能だろう。
しかし、日本と密接な関係にある国、貿易でも軍事力でも、相手に何か大きく依存しているものがある国が攻撃を受けた時、その余波から日本を守ることまでは、個別的自衛権では不可能である。

現代の国家は、その一国だけで成立しているわけではない。
他の国々との関係性の中で成り立っているのだ。
それは奇しくもルーピー鳩山の言葉通り、「日本は日本人だけのものではない」と言える。
例えば、日本がなけれな成り立たない国、日本が打撃を受ければ最悪破綻してしまう国というものがあるはずだ
そして日本にとっての、相手が健在でないと成り立たなる国が米国なのだ。
米国のために、集団的自衛権で米国を守るのではない。
日本のために、集団的自衛権で米国を守らなければならないのだ。

自民党は、「日本を取り巻く安全保障環境は大きく変化した」と主張している。
私は当初、ソ連崩壊によって冷戦は終結し、地球滅亡へのカウントダウンは一時停止したように思えていた。
しかし、中東ではISISが台頭し、東アジアでは中国が経済発展を背景に軍事力を強め、ロシアはソ連崩壊の混乱から脱したのか、クリミアへと勢力を拡大した。
そして、今やミサイル発射のスイッチひとつで、他国の重要地点に大規模爆撃することが可能な時代だ。
反米勢力が充分な軍事力を持って散らばっている分、ソ連と二強状態だった冷戦時代よりも危険度は増していると言っても過言ではないだろう。
「安保関連法案を今国会で成立させる必要はあるのか?」とよく疑問視されるが、じゃあ来年以降にまた考えましょうとか言っていられるほど余裕があるとも思えない。



さて、今年は戦後70年。
地元紙・新潟日報は戦争に関する特集記事を連日書き続けた。
その中で、旧日本軍の兵隊だった人にインタビューをして、「自分たちは洗脳されていた」という記事を読んだ時に、私はこう思った。
戦時中の日本人が、戦争に向かうよう国に洗脳されていたと言うのなら。
戦後の日本人は、戦争をしないよう日教組ら左翼勢力に洗脳されている。

「戦争法案反対」、「日本を戦争する国にするな」
私も新潟駅で行われたデモを見物してきたが、いやはや、洗脳とは実に恐ろしい。
先日の中国の軍事パレード、及びそれに出席したロシアと韓国の大統領を見て分かるように、日本は決して安全な環境にあるわけではないのは明白だ。
日本が戦争をする気がなくても、周辺国家には関係のない話である。
日本へ侵攻するメリットがデメリットを上回り、その必要性さえあれば、いつだって日本は他国から攻撃を受け得るだろう。
その辺り、反対派は自分たちの思想や日本の立場だけで完結していて、他国がどう考え、
どう行動するかというところまで考えることができないのかもしれない。
「戦争に行きたくない」という主張からも、その目に映っているのは自分が戦場で苦しむ光景だけで、自衛をしなかったときの自分の姿(命・財産・尊厳を奪われる)や家族・知人がどうなるかということまでは想像ができないのだろうと感じる。

日本の反戦教育は歪んでいる。
反戦の思想を全否定するわけではない。
しかし、反戦教育をするきっかけとなった太平洋戦争は不幸すぎた。
都市空爆や戦地での玉砕攻撃など、その被害は世界史上の戦争の中でも相当に悲惨なものだったのではないか。
また、戦後のGHQによる統治が悪いものではなかったことも災いしている。
結果的に日本人は、戦争をすれば悲惨な被害を受け、いっそ降伏してしまえば丁重に扱ってもらえるとでも思い込んでしまっているように思える。
だが、次の敵は多人種の入り混じった自由の国・アメリカではなく、数千万人を粛清した経験のある中国・ロシアという軍事独裁国家であることを忘れてはならない。

安保反対派をのさばらせておくと、いざ敵が侵攻してきた時に自衛のための戦争すら放棄しかねない。
これは日本を崩壊へと導く危険思想である。
言論弾圧まではできないかもしれないが、彼らの主張の問題点をきちんと指摘して、洗脳される国民を増やさないようにしなけれなならない。

2015年8月18日火曜日

盗作者の心理

もちろん佐野研二郎の話です。

東京五輪のエンブレムのデザインが、ベルギーの劇場のロゴと酷似。
サントリーのトートバッグのデザインにも、「BEACH」やフランスパンなどコピペであることが明らかなものから、発想を盗用したと思われるものまで多数見つかっている。

http://zarutoro.livedoor.biz/archives/51889704.html


五輪エンブレムを巡っては、使用をやめるべきだという意見が出る中、IOCや舛添都知事など主催者側は使い続けたい意向を表明。
そしてベルギーのデザイナーが提訴。
しかし東京五輪大会組織委は愚かにも、ベルギーのデザイナー側を非難する声明を発表してしまった。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1850573.html


今回は、芸術家らの盗作問題について心理学的に考えてみたい。


盗作には二種類ある。
意図的な盗作と、意図しない盗作だ。

佐野研二郎の例で言えば、「BEACH」やフランスパンが意図的な盗作に当たる。
「BEACH」は字体や複雑な矢印の形状が完全に一致しており、フランスパンはネット上にアップされていた写真をそのまま使用しているのが明らかである。

何故、意図的な盗作をするのか?
こちらはあまり掘り下げる気がないので、ワイドショーなどでワイワイ言い合っているのを参考にして頂きたい。
ネタに困り、バレなきゃいいと思って・・・そんなところだろう。



本題として、意図しない盗作のケースを考えたい。

絵、物語、音楽…様々な作品で盗作疑惑は存在する。
しかし、それが本当に盗作なのかどうか、盗作だとしても意図的なのかどうか、判別することは困難である。
何故なら、芸術には人に好まれやすい傾向というものがあり、また、盗作したかどうかは創り手に自覚があるかどうかも重要だからだ。


意図しない盗作のケースの1つには、大衆に好まれる作品を作ろうとした結果、発想が既存の作品を被ってしまうということがある。

例えば、黄金比(1:1.618)を美しいと感じる。
例えば、能力の低い主人公が努力して成功するような、成長物語を読むのが面白い。
例えば、特定のテンポや曲調のものを聴くと心地よい。

宗教などの思想や民話など、作られた時代や場所が大きく離れているのに、とても似通っているということもある。
例えば、殺された神の死体から食物が生まれるハイヌウェレ型神話など。
また、日本神話において、イザナギに殺されたカグツチの死体から神々が生まれるという描写があるが、ギリシャ神話においても、メドゥーサの切られた首からペガサスが生まれるというような類似点がある。
これらは文化が伝播して影響を受けたとも考えられるし、人間の普遍的な価値観として、同じようなものが好まれ、同じような発想をした結果、同じようなものが生まれたのだとも考えられる。

東京五輪のエンブレムについても、当初なされていたのは主張はこのような方向性であった。
Tokyoの「T」を使おうとしてデザインをしたら、自然と同じような形になる、と。
しかし、上半分までならともかく、右下の楕円の縁のような部分が偶然被る可能性はかなり低くなるだろうが。

ただし、これは「盗作である」と言われたから、そのように感じるだけなのだという説明もできる。
一般的な用語ではないかもしれないが、「テキサス名射手の誤謬」という認知バイアスが存在する。
これは、まず壁に何十発という銃弾をデタラメに撃ち込み、その後でたまたま弾痕が集中している部分に的を描き足す。
すると、何も知らないで的と弾痕だけを見た人は、的に向かって正確に銃弾を撃ち込んだ優れたガンマンの仕業だと思い込んでしまうというものだ。
このように、人間は偶然の一致に意味を見出してしまう傾向がある
東京五輪のエンブレムの一件も、世界中に無数にある様々なデザインの中から、偶然にも酷似したベルギーの劇場のデザインを持ち出されたから、盗作であると確信してしまっているだけだという説明もできるのではないだろうか。

・・・しかし、サントリーの件で佐野研二郎が盗作を行ったことが明らかになったため、この説明では納得できないものがあるのだが。

もっとも、「別のデザイン(サントリーのトートバッグ)で盗作をしているから、五輪エンブレムも盗作だ」と決めつけてしまうのも認知バイアスだ。
東京五輪のエンブレムとサントリーのトートバッグとは全く別の話であり、サントリーのトートバッグで盗作をしたことが、東京五輪のエンブレムで盗作した証拠にはならない。
佐野研二郎が盗作の常習犯だったからと言って、佐野研二郎の作品全てが盗作であるとは言えないのだ。
盗作の常習犯が、たまたま既存のデザインと酷似した作品を自力で生み出したという可能性を、否定することはできない


続いて、意図しない盗作のケースの2つ目。
これが今回最も主張したいことで、芸術家の善性を信じたいという想いが前提にある説明なのだが。
つまり、盗作元の存在を忘却してしまったというケースだ。

佐野研二郎は「(ベルギーの劇場ロゴを)見たことがない」と主張している。
嘘を吐いているかどうかは本人にしかわからないが、仮にこれが嘘ではなかった場合。
実際にはこれを見たことがあり、しかし見たという経験を忘却したため、デザインだけが記憶に残ってしまったということが考えられる。

そもそも芸術家が作品を作る時、どのような心理的メカニズムが働いているのだろうか?

心理学に、S-O-R理論(Stimulus-Organism-Response Theory)というものがある。
人やその他の生物は、外界から何らかの刺激(S)を受けると、特定の反応(R)をする。
しかし、どのような反応をするかは個体差(O)によって異なるという考え方だ。
例えば、人が他者から暴力を受ければ、通常は怒りや悲しみといった感情を抱く。
しかし、暴力を受けたのがドMな性癖を持っている人なら、表出される感情の反応は喜びになるかもしれない。

芸術家は、芸術について勉強したり、他の芸術家の作品に触れたり、どのような作品が人に好まれるかといった情報を得るなどして、常に刺激を得ている。
そうして受けた刺激を知識や経験として自身に取り込み、自身に備わっている創造性と影響し合った結果、自身のオリジナル作品が創造されるのではないだろうか。

この過程において、芸術家は多くの作品に触れるだろう。
そこには他者の作品もあるし、次々浮かぶ自身のアイデアもある。
その中で、見聞きした他者の作品と自身のアイデアの記憶とを、明確に区別できるだろうか?

新しい作品についてのアイデアが浮かんだが、それが自身のオリジナルなのか、それとも以前どこかで見た他者の作品の記憶なのか。
特別有名なものや個人的に印象深い作品ならばともかく、世界中に無数にある作品に絶えず触れていれば、膨大な情報を整理する中で記憶に齟齬が生じてもおかしくない。

そもそも人間の記憶とは曖昧なものだ。
意識していないものは記憶に残りづらいし、強く印象に残る出来事の記憶でも、あとから得た情報などの影響で内容が改竄されることもある。
芸術家でなくても、例えば何らかの社会問題に対する自分の意見が、自身の内から生じたものか、あるいはテレビでコメンテーターなどが主張していた内容を、意識せずにそのまま自分の意見として使っているようなこともあるのではないだろうか。
自分自身のことを、自分が考えているほど理解できていないというのも、認知の大きな落とし穴である。



今回のまとめ。

盗作は、本人の自覚がない場合もあるので、意図的であるかどうかを判断することは難しい。
仮に既存の作品と酷似した、盗作疑惑のある作品があったからと言って、その制作者に悪意があったかどうかは制作者本人にしかわからない。
しかし、悪意の有無に関わらず、盗作であることが濃厚な作品は撤回するべきだ。
悪意がなく、盗作した記憶もないからと言って使い続けてしまえば、著作権など意味をなさなくなる。

東京五輪エンブレムの問題で重要なのは、佐野研二郎が意図的に盗作したかどうかではない。
既存の作品とあまりにも酷似しているという時点で、著作権の侵害と訴訟によるいざこざを避けるため、速やかに撤回するべきだということなのだ。

2015年8月13日木曜日

安保法案への私見

戦争法案という言葉をよく目に耳にするようになった。
近所でも共産党が張り紙や街宣車で必死にアピールしている。
あれもヘイトスピーチの規制対象にすればいいのに。


集団的自衛権について。
私の意見としては、 消極的に賛成、といったところ。
正直どちらでも良いのだが、現状では反対が多いようなので、たぶんYes/Noで訊かれたらYesと答える。


今回は、集団的自衛権の問題点や議論になってる点を挙げ、この問題について考えてみたい。


◆違憲か?

微妙なところ。
セーフといえばセーフにも思えるけど、アウトといえばアウトにも思える。
ただし、国民には憲法を守る義務があるが、憲法が普遍的に正しいわけではなく、改憲は憲法上認められている。 
違憲だから集団的自衛権は認められないという理屈は通らない。
・・・だったら改憲するのが一番良いのだが、世論調査の結果見ると厳しい。
安倍首相の支持率も、野党やマスゴミのネガティブキャンペーンに見事に乗せられた結果か、下がっているし(所詮は鳩山内閣を成立させた日本国民)。
とりあえずは憲法の範囲内ギリギリで法案を通し、国民が納得できた上で、改憲に持って行きたいといったところか。


◆政府は必要性の説明をきちんをやっているのか? 

やっていない。 
おそらく、できないのだろう。
後述する。


◆必要なのか? 

ホルムズ海峡の機雷掃海の話をしているが。
まぁ本来の目的とは違うだろう。

本命は、中国・ロシア・北朝鮮・ついでに韓国への牽制だろうか。
具体的に名前を出してしまうと、特定の国に対する軍事力の整備ということになり、相手国が「挑発を受けた」として侵攻する口実を与えかねないから、明言を避けているのだろう。

もしも中露あたりが本気で日本に侵攻してきたら、自衛隊だけではどうにもならない。
アメリカの協力が不可欠だ。
しかし、アメリカも一枚岩ではなく、共和党は親日的かつ好戦的で頼りになるが、民主党はいくらか中国寄り。
アメリカ国内世論からしても、人種がサラダボウルなため、どうまとまるのか不明瞭。
特に韓国系の移民などは、アメリカ国籍を得てアメリカで暮らしていても、アイデンティティは母国から持ち込んでいるので、アメリカの国益よりも韓国の国益を優先すると見られる。

以上のような理由から、アメリカとの同盟関係を強化して、有事には確実に協力して守られるようにしておく必要がある。

特に、共にアメリカと軍事同盟を結んでおきながら、韓国は日本の竹島を占拠している。
奪還する時には、韓国よりも日本に味方してもられるような関係を築いておく必要がある。


◆アメリカを攻撃する北朝鮮のミサイルをスルーしていいのか?

民主党(など?)が言うように、北のミサイルだけならアメリカが自力で対処すればいいかもしれない。
しかし、もしもこれが北だけではなかったらどうだろう?
中国やロシア、そして中東などの反米軍事国家。
これらが協力し合い、タイミングを合わせて、各国が持つミサイルを一斉に発射したら?
それら全てを、アメリカは撃墜できるだろうか。
そして、もし一発でも、経済の主要都市に攻撃を受けたら?
アメリカ国内は勿論、その経済的大打撃は日本にも及ぶ。
リーマン・ショックなど可愛いレベルの大不況が到来するに違いない。
更に万一、アメリカが滅ぶようなことにでもなったら?
中国は日本に侵攻してくるだろうし、強大な軍事力を持った国々で世界政治の主導権を巡り、第3次世界大戦が勃発するのではないだろうか。
そうなった場合、現在の日本の力では滅亡は免れない。

せめて日本の領空を飛来するミサイルくらいは撃墜しておくのが、日本の安全のためである。


◆何故いまなのか?

東アジアの安全保障環境の悪化と主張しているが、冷戦時より悪くなっているとも思えない。
ただ、本当はもっと早く整備しておくべきだったが、これまではできなかった。
今後必要になった時に無いと困るので、できる内にやっておいた方がいい。

例えば阪神淡路大震災の時。
自衛隊の災害派遣に対する法整備が不十分だったことから対応が遅れ、自衛隊がすぐに動いていれば救えたはずの命が多く失われたと言われている。

問題が起こってから整備するのでは遅い。
起こりうる事態を推測し、実際に問題が発生した時には対応できるようにしておかなければならない。 
それが今ならできそうだから、今やるという話。


◆日本は戦争に巻き込まれるの?

日米安保の時とか、戦争に関わる法案が出る度に、こういう脅し文句で反対する人間が出てくるけれど。
今まで戦争に巻き込まれたことはない、これが全て。 

また、中国などが日本に侵攻してくるリスクは、既にある
集団的自衛権がなければ日本は戦争をしないというのは幻想だ。


◆徴兵制になるの?

ならない。

集団的自衛権に反対する民主党の議員が、「あり得ない」って言っちゃったw
法案に反対なのではなく、自民のやることに反対したいだけなんだよね。
 http://news.livedoor.com/article/detail/10394267/

徴兵してまで数を揃えて出兵する必要は絶対にない。 

それに、本土を守るためならともかく、海外派遣のために徴兵された軍隊がモチベーション的な意味で使い物になるのか疑問。


◆どうして集団的自衛権には悪いイメージがあるの? 

マスゴミがそういう印象操作をしているから。

議論が尽くされていない?
与党が妥協点探っても、野党に議論する気がないのでは意味がない。

それで野党が採決を拒否したら強行採決?
議員としての責任を果たせと批難するべきところではないだろうか。

野党寄りの報道を続けた結果、世論調査で半数が反対しているという結果が出た?
与党が立場上、必要性を明言できない以上、マスゴミが好き勝手言って必要性を説明していくべきではないのか。



◇まとめ 

聖徳太子が言った「和をもって貴しとなす」という言葉の本当の意味は、

「自分と異なる意見を持つ相手の主張に対して、偏見や構えを持たず、素直に聞きなさい」

ということらしい(どこで聞いたかは残念ながら忘れてしまったが)。

相手の意見に対して、ある程度構えてしまうのは、認知心理学的にも仕方がないことではある。
ある程度相手の思考や行動を予測して、物事に構えて置かないと、情報処理が追いつかない。

しかし、それを踏まえた上で、素直な気持ちで相手の主張に耳を傾け、
それから冷静に、合理的な思考でもって物事を判断していかなければいけない。



グローバルに活躍する実業家などの中には、「戦争や大災害になったら海外に移住すればいい」と言う人もいる。
しかし、全ての日本国民がそれをできるわけではない。
生まれ育った日本に愛着があるのは勿論、外国へ移住するとなれば文化や環境の違いに適応して生活せねばならず、それはかなりの負担になる。

人間は社会的な動物であり、社会なくして人間は生きられない。

そして社会は、同じ社会に暮らす人々(成員)の協力、個々人の社会貢献によって成り立っている。

戦争になれば社会(国)を守るため、これまで暮らしてきた環境を維持するため、兵となって戦わなければならない。

「自分さえ災難に遭わなければ、他の成員などどうなっても構わない」
そのような人間は、社会を破綻させる害悪である。
社会に問題が発生する前に、移住でも何でもして我々の大切な社会から出て行ってもらいたい。


国防は、やって当たり前なのだ。
「やらなくてもいい」という意見が存在する時点で、その社会は既に異常である。
武装して侵略してきた相手に「非武装で抵抗する」などという選択肢はありえない。
凶器を持った強盗に対して、反撃も、防御も、警察への通報も、近隣住民に助けを求めることもせず、しかし自分は危害を受けず、金目の物も渡さないと言っているのと同じことだ。
理想を語るのは結構だが、現実を直視して現実的な対応をしなければならない。

その対応策として、
自宅に強盗撃退用の武器を用意することを個別的自衛権、
近隣住民と自警団を組織したりすることが集団的自衛権といったところか。
場合によっては防犯システムや警察としての国連軍も期待できるかもしれないが。
この例だと、警察や警備会社の幹部に強盗がいる状態なので、やはり集団的自衛権の整備は必要だろう。

原発の危険性に関わる認知バイアス

先日、川内原発が再稼働した。

原発反対派は例によって、原発の危険性を強調し反対運動に勤しんでいる。
一方、地元の商店街などは街が活気づくからと、原発再稼働を歓迎しているようだ。

私の地元・新潟にも刈羽原発(国内最大)があるが、地元からは推進の声も聞こえる(多数派かどうかはわからないが)。


今回は、原発の危険性について人が思考をする時、影響する認知バイアスを考えてみたい。


まず、原発推進派について。
前提として、原発は非常に危険である。
事故が起これば、爆発や放射性物質の影響で多くの死者が出る。
そして福一やチェルノブイリ同様に、人が住めない土地になる。
にも関わらず、何故、原発を容認するのか?

原発推進派の思考には正常性バイアスが影響している。

人間は自分の身に何か異常が起こった時、パニックに陥らないようにするためか、異常事態を受け入れたがらない傾向がある。
3.11の津波では逃げ遅れた人も多かったが、これには「自分だけは大丈夫だろう」「命に関わる大津波などそうそう来るものではない」と考える正常性バイアスは働いた影響もあるだろう。
かく言う私も、当時本屋で震度4程度の地震に襲われたが、「なんだ地震か」とスルーしてしまった。
本棚が結構揺れていたので、もう少し大きい地震だったら本棚が倒れて下敷きになっていたかもしれない。

原発事故も同様で、いつ取り返しのつかない大事故が発生するかわからない。
しかし、そのような事態はそうそう起こらないだろうという慢心、リスクの過小評価が、原発推進派の心にはあるはずだ。


一方、原発反対派の思考にも認知バイアスは影響している。
彼らは推進派とは逆に、リスクを過大評価する傾向にあるように思える。

原発事故などそうそう起こるものではない。
小規模な事故(とは言え死者が出た例もあるが)はいくらかあれど、取り返しのつかない大事故は、チェルノブイリや福一など極わずか。
しかも福一の場合は、不十分な管理体制に加え、想定を大きく越える地震と津波によるものだ。
ならば、充分な管理体制を徹底し、大災害も想定しておけば、やはり大きな事故が起こるとは考えづらい。

原発反対派を大きく後押しするのは、原発事故を経験した被災者の恐怖体験ではないだろうか。
個人の体験談というのは説得力があり、語り手は体験した恐怖の大きさ故に、同じことを繰り返すまいと必死になる。
これは戦争経験者などの話でも同様だ。

しかし、体験者は恐怖が大きかったがために、正常な(合理的な)判断ができなくなっている可能性を指摘したい。
そもそも人間が物事を判断する時、脳は感情と合理的思考をそれぞれ別に処理している。
これは、合理的思考を司る大脳新皮質が、進化の上で新しく発達した部位だからだ。
人類の発展は、脳の発達により高度な思考ができるようになったことが大きい。
ところが、人間がする判断には、より低次の情報処理である感情の影響がとても大きいのだ。

例えば、高所恐怖症の人がいる。
テレビのバラエティー番組などで、バンジージャンプを強要されたタレントが過度に怯えている姿をよく目にするのではないだろうか。
あれは演技も入っているのかもしれないが、ともかく高いところが怖いというのはよくある話しだろう。
しかし、しっかりとした柵のある建物の屋上、丈夫な足場の橋の上、ヒモでしっかり結ばれているバンジー。
合理的に考えれば、危険などあるはずもない。
にもかかわらず、怖いものは怖い。
何故か?
恐怖という感情が、合理的な思考を妨げているからだ。

原発が再稼働したからといって、事故が起こる可能性はゼロに近い。
集団的自衛権が容認されても、日本が侵略を受けるリスクは大して上がらないだろうし、徴兵してまで海外に自衛隊を大量投入するなど絶対にあり得ない。
しかし、事故や戦争を体験した人は、その恐怖から、実際に同じような事態が起こる可能性を過大評価しているのだ。



結論として。
原発は安全に充分配慮して、電力不足が決して起こらないよう効果的に運用するべきだ。
そして、ちらっと見ただけだが、NHKは川内原発が再稼働される時、実況中継のような過剰報道をしていると感じた。
公共放送として、国民の不安を煽るような報道姿勢はいかがなものか。
安全性と危険性・推進派と反対派の意見・一般市民の反応・地元の反応…といった情報を充分かつ正確に伝え、意見への偏りを助長するようなことがないよう、自分たちが及ぼす影響まで考慮した上で報道を行わなければならない。

2015年7月30日木曜日

世界遺産推薦を逃して新潟のメディアがお通夜

28日16時
文化審議会は2017年の世界遺産登録を目指す4つの候補の中から、福岡の「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」を推薦すると決定した。


同時刻。
日テレ系列のローカル番組『新潟一番』では、県内から候補に上がっていた「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」を応援すべく特集。
佐渡から中継し、世界遺産登録を推進してきた団体の代表を呼ぶなどしていた。
しかし、16時を過ぎても連絡はなく、待っている間に他のVTRを流していたが・・・。
VTRの途中で推薦を逃したとの報が入り、VTRを中断してこれを伝えた。


翌29日
新潟唯一の地方紙である新潟日報は一面で、佐渡が世界遺産への推薦を逃したと報じた。


決定の前。
『新潟一番』は「宗像・沖ノ島と関連遺産群」に対し、今年登録された「明治日本の産業革命遺産」の多くが九州であることから、連続して九州を推さないのではという見解を見せていたが。

しかし、それを言えば佐渡金山も、産業革命遺産と印象が被るのではないだろうか?

そもそも、「明治日本の産業革命遺産」が登録されるまでの経緯(韓国がごねて、「forced to work」という表現を使わされた)を考えれば、今回、佐渡金山を見送ったのは至極妥当な判断だったと思える。

既に韓国は佐渡金山に対し、以下の様な動きを見せているのだ。

 > 韓国外交省報道官は5月の定例記者会見で「佐渡鉱山の遺産群」に触れ、「日中戦争以来、約1000人程度の朝鮮人が強制労働をしたと把握している。登録推進の動きを注視している」と述べた。
 > 韓国紙「文化日報」は、韓国政府関係者の話として、「日本が登録を推進すれば、『明治日本の産業革命遺産』のように外交問題になる可能性がある」と指摘している。
http://jiyusoku.jp/archives/6146

この状況で佐渡金山を推薦するわけがないと思うのは、私だけだろうか?


「明治日本の産業革命遺産」からして、今年の登録にこだわるべきではなかったと私は思う。
アウシュヴィッツのように、負の世界遺産として登録されているものもいくつかある。
しかし、「明治日本の産業革命遺産」は基本的に正の世界遺産として登録すべきもの、国民や地元の人間がこれを誇りに思うものとして登録を目指したのではないのか?
韓国にケチをつけられ、これを説得できなかった時点で、韓国を完全に無視するなり、いっそ取り下げるなりしても良かったはずだ。


佐渡金山にも、朝鮮人に限らず、強制労働が行われたという事実はある。
しかし、少なくとも現代の人間にとって佐渡金山は、江戸幕府の重要な財源となっていたものであり、地元の人間にとっては貴重な観光資源だ。
私も小学校の修学旅行で佐渡を訪れたが、砂金取り体験などができて楽しかった思い出がある。

これを安易に、負の世界遺産とされるリスクを背負って、性急な登録を目指すべきではないだろう。

佐渡金山の世界登録には、日韓関係の変化が欠かせない。
それが友好であるか、断交であるかは、佐渡には関係のない話だが。



ちなみに、今回私が応援していたのは「百舌鳥・古市古墳群」だった。
世界最大のお墓・大仙陵古墳は、何故未だに世界遺産に登録されていないのか、不思議なくらいだ。
ユネスコの調査委員が入らせてもらえないのが理由のようだが。
「世界の遺産」というより、「日本の遺産」・「天皇家の遺産」としての向きが大きいせいか。
どこかでうまく折り合えることを期待したい。

2015年6月30日火曜日

【心理学的に考えた】 「うつは甘え」か?

「うつは甘え」

よく聞くフレーズだが、私はこの考えを100点満点で30点くらいだと思っている。
全くの的外れと言うほどではないが、しかし、正確な認識には程遠い。

今回は鬱病や、人が鬱病を甘えであると考えることについて、認知心理学的に考えてみたい。
(あまり精神医学の方面には突っ込まないので、予めご理解頂きたい)


まず、鬱病患者の心理状態・症状などをいくつか挙げてみよう。

・ やる気がおきない、無気力
・ 落ち込んでいる
・ 食欲不振(あるいは食べ過ぎ)
・ 睡眠障害(寝付けない、夜中に目が覚めて寝直すことができない等)

症状自体は、普通の人でも割りと日常的に起こるものだ。
大抵はこういった症状が2週間続くと、鬱病であると診断される。

しかし、日常的に起こるものであるからこそ、鬱病を過小に評価しがちなのではないだろうか。
これは鬱病患者を甘えているだけだと批判するだけでなく、自分が鬱病であることを自覚できないことにも繋がる。


身内の話だが、私の祖母は夜中に何度も目を覚ましては、トイレに行き、眠れないとソファーに座ってぼけーっとしている。
やがて眠くなったら再び床に就くのだが、1時間もすればまた目を覚ます。これを朝まで繰り返す。
人間は大体90分周期でレム睡眠(浅い眠り)とノンレム睡眠(深い眠り)を繰り返すのだが、祖母の場合はレム睡眠の周期に入る度に目を覚ましている計算だ。

また、祖母の娘である私の母も、睡眠の質は低い。
寝付くのは早いのだが、寝返りを打つごとに目を覚ましていると本人は言っている。
私は一度眠ってしまうと朝まで決して目が覚めないので、ちょっと理解できない感覚である。

祖母も母も、おそらく睡眠障害を患っているのではないかと私は見ている。
しかし、両人とも社会人ではなく、生活に支障はないようなので精神科・心療内科の診察を強く勧めてはいないが。
(軽く提案することはあるが、嫌がる)


wikiの鬱病の頁によれば、日本人が一生の内で鬱病になる確率(生涯有病率)は、6.7%。
世界では3~16%とのことだ。

この数字がどうやって出てきたのかはよくわからないが・・・。
まさか医療機関で鬱病患者の数を調べたり、あるいは「あなたは鬱病になったことがありますか?」などと聞いて回ったわけではあるまいな?
病気になっても医者に行かない人もいるし、自分が病気であるという認識(病識)がない場合も多い。
何より、鬱病の世間的な印象の悪さや、「自分だけは大丈夫だ」という正常性バイアスに影響されて、自力で解決したがる人も多いのではないか。

ともかく、症状の重さや苦しむ期間を別にすれば、鬱病は割りと誰にでも起こりうるものだと考えておいて欲しい。





「うつは甘え」だと批判する人の心理

鬱病の人を甘えだと叩くのは、主にニートや登校拒否などになっているケースではないだろうか。
しかし、例えば会社の同僚が鬱で長期休暇をとったり辞職するなどして、人員に穴が空いて仕事が回らなくなるような場合なら、そのお怒りもごもっともなのだが。
しかし、そうでない場合、または上のような経験をしたことがあったとしても、当人以外の鬱病患者を叩くというのはおかしな行動ではないだろうか?
自分に直接の利害をもたらさない誰かが鬱になろうがどうしようが、自分とは何も関係もないはずなのだ。
何故人は、鬱病患者を悪く言うのだろう?

これは公共財供給共有地の悲劇で説明できる。
簡単に解説すると、みんなが社会のために貢献していればみんなが利益を得ることができるシステムがあった時、何らかのズルをする人間がいれば、やがてそのシステムは破綻してしまう。
人はだまされたり、(コストの面でもリターンの面でも)自分だけが損をするのは嫌なので、ズルをする人間を許せないという話だ。
つまり、自分たちは苦労して働いている(学校に行っている)のに、それをせず遊んでいるニートを見ると、自分が貧乏くじを引いたような気分になり、ニートが羨ましく思えてしまうのだ。
実際は隣の芝が青く見えるだけで、自分たちは労働の対価に給料を得ているし、鬱病ニートからすれば元気に働けている人が羨ましいのではないかと思うのだが。

同じことが、ナマポ(特に、必要もないのに生活保護を受給している人)やアフィ厨などにも当てはまるだろう。
これらは、同時に公正世界仮説の考え方も影響していると考えられる。
公正世界仮説とは、世の中は公正であるという信念のことで、「善良に生きていれば幸福になれる(不幸なことは起こらない)」だとか「悪人にはやがて天罰が下るだろう」といった考え方だ。
現実にはどんなに善良に生きていても、不慮の事故や病気で不幸な結末を迎える確率は悪人と変わらないのだが、そうは考えたくないのだ。
人は不公正な世界を容認出来ない。
だから、善良な自分を差し置いて、怠け者なのに生活に困らないニートやナマポが許せないし、不正受給問題で芸人が干されると気分が良いのだ。





働けない鬱病患者の心理

それでは、そもそも何故、鬱病患者は働かないのかを考えてみよう。

一つには、学習性無力感に陥っているケースが挙げられる。
学習性無力感は、かの有名なパブロフの犬をパクった実験で偶然発見された。
パブロフの場合は、犬に餌を与えると同時にベルを鳴らすことで、「ベルがなれば餌がもらえる」ことを学習させ、やがてベルを鳴らすだけで犬は涎を垂らすという反応を引き出した。
これに対して、学習性無力感の実験では報酬(餌)ではなく罰を与えることにした。
柵に入れた犬を身動きできないよう拘束し、ベルを鳴らすと同時に電気ショックを与えたのだ。
実験者の予想では、これを学習した犬はベルの音を聞いただけで柵の外に逃げ出すようになるはずだった。
しかし実際には、犬は電気ショックから逃げようとせず、ただじっと耐えているだけだったのだ。
これは、何とかして危険を回避しようと考えるのではなく、自分の力ではどうにもならない災難だから我慢してやり過ごそうという風に考えてしまったのである。

鬱病患者もこの犬と同じことが起こっている。
人生の中でそれぞれ何らかの挫折を経験し、努力ではどうにもならないことがあると学習してしまった。
無力感に苛まれ、人生を諦めてしまっている状態なのだ。
何か成功経験でも舞い込んでくれば、この状態を脱却することができるのであろうが。
そもそも無気力なので、成功するための何らかの挑戦をすること自体が難しいのかもしれない。
失敗は自尊心を傷付けるが、自尊心が傷付くということは自己が否定されるということでもある。
失敗することで自尊心が今以上に傷付くのが怖いという不安から、行動すること自体を回避しようとする心理が、ニートや引き篭もりにあるのだろう。



また、人間が行動したり何かを考えたりする時、感情の影響がとても大きいということが関係していると考えられる。
よく、人間がいかに優れた生物であるかを説明する時、大脳新皮質の発達が挙げられる。
脳のこの部位の働きによって、高等な生物は理性的で合理的で分析的で計画的な判断ができる。
しかし、高次の部位である大脳新皮質が行う情報処理には時間がかかっていまう。
一方、下等な生物でも(言い換えれば生物進化の初期の頃から)身に付けている低次の脳は、不合理で感情的で本能的な判断を瞬時に下す。
つまり、よく考えて結論が出るよりも早く、人は直感的に結論を出してしまっているのだ。
例え熟考した結果が直感と違うものだったとしても、直感を無視はできない。
ある程度は(あるいはかなり大きく)感情の影響を受けてしまうのである。

人は労働をしなければいけない、当然のことだ。
憲法にそう書いてあるからではなく、働かないと収入が得られず、生きていけないからだ。
しかし、いざ学校へ行こう、働こう(そのためにまずハロワへ行こう)、となるとこれが中々難しい。
合理的な脳と不合理な脳が葛藤するからだ。
今までニートだったのに社会復帰するとなると、心理的な負担が大きい。
鬱病患者なら激しい動悸やめまい、吐き気などに襲われることだろう。
それだけのコストを支払って、見合うだけのリターンが果たしてあるのだろうか?
合理的な脳は「ある」と判断する、働かなければ死んでしまうが、働けば生きていけるのだ。
しかし不合理な脳は、恐らくリターンを過小評価するだろう。
例えば前述した学習性無力感の影響から、就活に失敗する不安を引き出したり、あるいは勤め先で嫌なことがあった経験を想起させる。
また、現在の社会状況を鑑みて、紹介されるのは低収入の非正規雇用ばかりだと予想し、これでは結局お先真っ暗じゃないかと考えてしまうかもしれない。
得られる保証の少ない(主観によっては全く無いかもしれない)リターンよりも、確実に起こる心理的負担というコストを天秤にかければ、リターンを追求するのは難しくなる。



正常性バイアスも作用しているだろう。
現在は家の中に引き篭もっていても、インターネットで多くの人と交流したり、様々な情報を得ることができる。
そこで自分と同じ鬱でニートの人と交流したり、そういった人が発信したSNSや書き込みを見ることで、「自分と同じような人は他にもいっぱいいるんだ」と安心することができる。
しかしそれは、大津波警報が発令されていたり緊急地震速報が流れている中、「周りの人は避難していないから、自分も避難しなくて大丈夫だろう」と考えるのと同じことだ。



「明日から頑張る」も決まり文句だが、きっと明日も頑張れない。
なぜなら、明日の自分は行動ができる別の誰かではなく、行動できなかった今日の自分の一日後の姿だからだ。
今日の自分がやりたくないことは、明日の自分だってやりたくないのである。





鬱から脱却して社会復帰するためには

どうすれば鬱病を克服できるのだろうか?
メジャーなのは心療内科で投薬治療を受けることだが、これは対処療法的で根本的な解決は難しい。
薬でできるのは、精神状態を安定させたり、眠りやすくしたりすることだけだ。
しかし、ニートや引き篭もりというのは、環境そのものが既に安定してしまっている。
社会との関わりが極めて少なく、刺激に変化がないため、精神状態が安定したところで社会復帰しようという気にはなれない。

ではどうするか?
社会復帰しようという気になるような刺激を受けられる環境に身を置くことだ。

そもそも人間の行動や考え方というものは、自身の周囲を取り巻く環境と自己との相互作用によって生じる。
わかりやすい例を挙げれば、喋るのが大好きな喧しい人間でも、図書館などに行けば黙りこむ。
環境から刺激を受けて、人間はそれに対する反応として行動を起こすのだ。

「うつは甘え」を完全に否定出来ないのは、正にこの点にある。
鬱病は、いざ社会に出てしまえば大抵は改善してしまうものなのだ。
難しいのは社会復帰をするまでと、新しい環境に慣れるまで。
しかし、そこまでの心理的負担はやはり無視できず、最悪ストレスに耐えかねて自殺――となったら目も当てられない。
だから精神科医も、家族や友人・知人も、あるいは鬱病患者自身ですらも、下手に追い込めば逆効果になる可能性を無視できない。

だから私のオススメは、環境を整備するということだ。
もちろん、ニートを家から追い出すような強行手段も、「働かなければいけない環境」に違いはないので全否定はしないが。
できればもっとポジティブで、個性に合致して潜在意識に訴えかけるような方法があればベターだろう。
例えば、沈没する船から色々な国の人を言葉ひとつで海へ飛び込ませるコピペのように。

イギリス人には 「紳士はこういうときに飛び込むものです」
ドイツ人には 「規則では海に飛び込むことになっています」
イタリア人には 「さっき美女が飛び込みました」
アメリカ人には 「海に飛び込んだらヒーローになれますよ」
ロシア人には 「ウオッカのビンが流されてしまいました、今追えば間に合います」
フランス人には 「海に飛び込まないで下さい」
日本人には 「みんなもう飛び込みましたよ」
中国人には 「おいしそうな魚が泳いでますよ」
北朝鮮人には 「今が亡命のチャンスですよ」
大阪人には 「阪神が優勝しましたよ」と伝えた。




参考文献
デイヴィッド・マクレイニー (2011) 思考のトリック 脳があなたをダマす48のやり方 二見書房