もちろん佐野研二郎の話です。
東京五輪のエンブレムのデザインが、ベルギーの劇場のロゴと酷似。
サントリーのトートバッグのデザインにも、「BEACH」やフランスパンなどコピペであることが明らかなものから、発想を盗用したと思われるものまで多数見つかっている。
http://zarutoro.livedoor.biz/archives/51889704.html
五輪エンブレムを巡っては、使用をやめるべきだという意見が出る中、IOCや舛添都知事など主催者側は使い続けたい意向を表明。
そしてベルギーのデザイナーが提訴。
しかし東京五輪大会組織委は愚かにも、ベルギーのデザイナー側を非難する声明を発表してしまった。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1850573.html
今回は、芸術家らの盗作問題について心理学的に考えてみたい。
盗作には二種類ある。
意図的な盗作と、意図しない盗作だ。
佐野研二郎の例で言えば、「BEACH」やフランスパンが意図的な盗作に当たる。
「BEACH」は字体や複雑な矢印の形状が完全に一致しており、フランスパンはネット上にアップされていた写真をそのまま使用しているのが明らかである。
何故、意図的な盗作をするのか?
こちらはあまり掘り下げる気がないので、ワイドショーなどでワイワイ言い合っているのを参考にして頂きたい。
ネタに困り、バレなきゃいいと思って・・・そんなところだろう。
本題として、意図しない盗作のケースを考えたい。
絵、物語、音楽…様々な作品で盗作疑惑は存在する。
しかし、それが本当に盗作なのかどうか、盗作だとしても意図的なのかどうか、判別することは困難である。
何故なら、芸術には人に好まれやすい傾向というものがあり、また、盗作したかどうかは創り手に自覚があるかどうかも重要だからだ。
意図しない盗作のケースの1つには、大衆に好まれる作品を作ろうとした結果、発想が既存の作品を被ってしまうということがある。
例えば、黄金比(1:1.618)を美しいと感じる。
例えば、能力の低い主人公が努力して成功するような、成長物語を読むのが面白い。
例えば、特定のテンポや曲調のものを聴くと心地よい。
宗教などの思想や民話など、作られた時代や場所が大きく離れているのに、とても似通っているということもある。
例えば、殺された神の死体から食物が生まれるハイヌウェレ型神話など。
また、日本神話において、イザナギに殺されたカグツチの死体から神々が生まれるという描写があるが、ギリシャ神話においても、メドゥーサの切られた首からペガサスが生まれるというような類似点がある。
これらは文化が伝播して影響を受けたとも考えられるし、人間の普遍的な価値観として、同じようなものが好まれ、同じような発想をした結果、同じようなものが生まれたのだとも考えられる。
東京五輪のエンブレムについても、当初なされていたのは主張はこのような方向性であった。
Tokyoの「T」を使おうとしてデザインをしたら、自然と同じような形になる、と。
しかし、上半分までならともかく、右下の楕円の縁のような部分が偶然被る可能性はかなり低くなるだろうが。
ただし、これは「盗作である」と言われたから、そのように感じるだけなのだという説明もできる。
一般的な用語ではないかもしれないが、「テキサス名射手の誤謬」という認知バイアスが存在する。
これは、まず壁に何十発という銃弾をデタラメに撃ち込み、その後でたまたま弾痕が集中している部分に的を描き足す。
すると、何も知らないで的と弾痕だけを見た人は、的に向かって正確に銃弾を撃ち込んだ優れたガンマンの仕業だと思い込んでしまうというものだ。
このように、人間は偶然の一致に意味を見出してしまう傾向がある。
東京五輪のエンブレムの一件も、世界中に無数にある様々なデザインの中から、偶然にも酷似したベルギーの劇場のデザインを持ち出されたから、盗作であると確信してしまっているだけだという説明もできるのではないだろうか。
・・・しかし、サントリーの件で佐野研二郎が盗作を行ったことが明らかになったため、この説明では納得できないものがあるのだが。
もっとも、「別のデザイン(サントリーのトートバッグ)で盗作をしているから、五輪エンブレムも盗作だ」と決めつけてしまうのも認知バイアスだ。
東京五輪のエンブレムとサントリーのトートバッグとは全く別の話であり、サントリーのトートバッグで盗作をしたことが、東京五輪のエンブレムで盗作した証拠にはならない。
佐野研二郎が盗作の常習犯だったからと言って、佐野研二郎の作品全てが盗作であるとは言えないのだ。
盗作の常習犯が、たまたま既存のデザインと酷似した作品を自力で生み出したという可能性を、否定することはできない。
続いて、意図しない盗作のケースの2つ目。
これが今回最も主張したいことで、芸術家の善性を信じたいという想いが前提にある説明なのだが。
つまり、盗作元の存在を忘却してしまったというケースだ。
佐野研二郎は「(ベルギーの劇場ロゴを)見たことがない」と主張している。
嘘を吐いているかどうかは本人にしかわからないが、仮にこれが嘘ではなかった場合。
実際にはこれを見たことがあり、しかし見たという経験を忘却したため、デザインだけが記憶に残ってしまったということが考えられる。
そもそも芸術家が作品を作る時、どのような心理的メカニズムが働いているのだろうか?
心理学に、S-O-R理論(Stimulus-Organism-Response Theory)というものがある。
人やその他の生物は、外界から何らかの刺激(S)を受けると、特定の反応(R)をする。
しかし、どのような反応をするかは個体差(O)によって異なるという考え方だ。
例えば、人が他者から暴力を受ければ、通常は怒りや悲しみといった感情を抱く。
しかし、暴力を受けたのがドMな性癖を持っている人なら、表出される感情の反応は喜びになるかもしれない。
芸術家は、芸術について勉強したり、他の芸術家の作品に触れたり、どのような作品が人に好まれるかといった情報を得るなどして、常に刺激を得ている。
そうして受けた刺激を知識や経験として自身に取り込み、自身に備わっている創造性と影響し合った結果、自身のオリジナル作品が創造されるのではないだろうか。
この過程において、芸術家は多くの作品に触れるだろう。
そこには他者の作品もあるし、次々浮かぶ自身のアイデアもある。
その中で、見聞きした他者の作品と自身のアイデアの記憶とを、明確に区別できるだろうか?
新しい作品についてのアイデアが浮かんだが、それが自身のオリジナルなのか、それとも以前どこかで見た他者の作品の記憶なのか。
特別有名なものや個人的に印象深い作品ならばともかく、世界中に無数にある作品に絶えず触れていれば、膨大な情報を整理する中で記憶に齟齬が生じてもおかしくない。
そもそも人間の記憶とは曖昧なものだ。
意識していないものは記憶に残りづらいし、強く印象に残る出来事の記憶でも、あとから得た情報などの影響で内容が改竄されることもある。
芸術家でなくても、例えば何らかの社会問題に対する自分の意見が、自身の内から生じたものか、あるいはテレビでコメンテーターなどが主張していた内容を、意識せずにそのまま自分の意見として使っているようなこともあるのではないだろうか。
自分自身のことを、自分が考えているほど理解できていないというのも、認知の大きな落とし穴である。
今回のまとめ。
盗作は、本人の自覚がない場合もあるので、意図的であるかどうかを判断することは難しい。
仮に既存の作品と酷似した、盗作疑惑のある作品があったからと言って、その制作者に悪意があったかどうかは制作者本人にしかわからない。
しかし、悪意の有無に関わらず、盗作であることが濃厚な作品は撤回するべきだ。
悪意がなく、盗作した記憶もないからと言って使い続けてしまえば、著作権など意味をなさなくなる。
東京五輪エンブレムの問題で重要なのは、佐野研二郎が意図的に盗作したかどうかではない。
既存の作品とあまりにも酷似しているという時点で、著作権の侵害と訴訟によるいざこざを避けるため、速やかに撤回するべきだということなのだ。
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