「うつは甘え」
よく聞くフレーズだが、私はこの考えを100点満点で30点くらいだと思っている。
全くの的外れと言うほどではないが、しかし、正確な認識には程遠い。
今回は鬱病や、人が鬱病を甘えであると考えることについて、認知心理学的に考えてみたい。
(あまり精神医学の方面には突っ込まないので、予めご理解頂きたい)
まず、鬱病患者の心理状態・症状などをいくつか挙げてみよう。
・ やる気がおきない、無気力
・ 落ち込んでいる
・ 食欲不振(あるいは食べ過ぎ)
・ 睡眠障害(寝付けない、夜中に目が覚めて寝直すことができない等)
症状自体は、普通の人でも割りと日常的に起こるものだ。
大抵はこういった症状が2週間続くと、鬱病であると診断される。
しかし、日常的に起こるものであるからこそ、鬱病を過小に評価しがちなのではないだろうか。
これは鬱病患者を甘えているだけだと批判するだけでなく、自分が鬱病であることを自覚できないことにも繋がる。
身内の話だが、私の祖母は夜中に何度も目を覚ましては、トイレに行き、眠れないとソファーに座ってぼけーっとしている。
やがて眠くなったら再び床に就くのだが、1時間もすればまた目を覚ます。これを朝まで繰り返す。
人間は大体90分周期でレム睡眠(浅い眠り)とノンレム睡眠(深い眠り)を繰り返すのだが、祖母の場合はレム睡眠の周期に入る度に目を覚ましている計算だ。
また、祖母の娘である私の母も、睡眠の質は低い。
寝付くのは早いのだが、寝返りを打つごとに目を覚ましていると本人は言っている。
私は一度眠ってしまうと朝まで決して目が覚めないので、ちょっと理解できない感覚である。
祖母も母も、おそらく睡眠障害を患っているのではないかと私は見ている。
しかし、両人とも社会人ではなく、生活に支障はないようなので精神科・心療内科の診察を強く勧めてはいないが。
(軽く提案することはあるが、嫌がる)
wikiの鬱病の頁によれば、日本人が一生の内で鬱病になる確率(生涯有病率)は、6.7%。
世界では3~16%とのことだ。
この数字がどうやって出てきたのかはよくわからないが・・・。
まさか医療機関で鬱病患者の数を調べたり、あるいは「あなたは鬱病になったことがありますか?」などと聞いて回ったわけではあるまいな?
病気になっても医者に行かない人もいるし、自分が病気であるという認識(病識)がない場合も多い。
何より、鬱病の世間的な印象の悪さや、「自分だけは大丈夫だ」という正常性バイアスに影響されて、自力で解決したがる人も多いのではないか。
ともかく、症状の重さや苦しむ期間を別にすれば、鬱病は割りと誰にでも起こりうるものだと考えておいて欲しい。
「うつは甘え」だと批判する人の心理
鬱病の人を甘えだと叩くのは、主にニートや登校拒否などになっているケースではないだろうか。
しかし、例えば会社の同僚が鬱で長期休暇をとったり辞職するなどして、人員に穴が空いて仕事が回らなくなるような場合なら、そのお怒りもごもっともなのだが。
しかし、そうでない場合、または上のような経験をしたことがあったとしても、当人以外の鬱病患者を叩くというのはおかしな行動ではないだろうか?
自分に直接の利害をもたらさない誰かが鬱になろうがどうしようが、自分とは何も関係もないはずなのだ。
何故人は、鬱病患者を悪く言うのだろう?
これは公共財供給・共有地の悲劇で説明できる。
簡単に解説すると、みんなが社会のために貢献していればみんなが利益を得ることができるシステムがあった時、何らかのズルをする人間がいれば、やがてそのシステムは破綻してしまう。
人はだまされたり、(コストの面でもリターンの面でも)自分だけが損をするのは嫌なので、ズルをする人間を許せないという話だ。
つまり、自分たちは苦労して働いている(学校に行っている)のに、それをせず遊んでいるニートを見ると、自分が貧乏くじを引いたような気分になり、ニートが羨ましく思えてしまうのだ。
実際は隣の芝が青く見えるだけで、自分たちは労働の対価に給料を得ているし、鬱病ニートからすれば元気に働けている人が羨ましいのではないかと思うのだが。
同じことが、ナマポ(特に、必要もないのに生活保護を受給している人)やアフィ厨などにも当てはまるだろう。
これらは、同時に公正世界仮説の考え方も影響していると考えられる。
公正世界仮説とは、世の中は公正であるという信念のことで、「善良に生きていれば幸福になれる(不幸なことは起こらない)」だとか「悪人にはやがて天罰が下るだろう」といった考え方だ。
現実にはどんなに善良に生きていても、不慮の事故や病気で不幸な結末を迎える確率は悪人と変わらないのだが、そうは考えたくないのだ。
人は不公正な世界を容認出来ない。
だから、善良な自分を差し置いて、怠け者なのに生活に困らないニートやナマポが許せないし、不正受給問題で芸人が干されると気分が良いのだ。
働けない鬱病患者の心理
それでは、そもそも何故、鬱病患者は働かないのかを考えてみよう。
一つには、学習性無力感に陥っているケースが挙げられる。
学習性無力感は、かの有名なパブロフの犬をパクった実験で偶然発見された。
パブロフの場合は、犬に餌を与えると同時にベルを鳴らすことで、「ベルがなれば餌がもらえる」ことを学習させ、やがてベルを鳴らすだけで犬は涎を垂らすという反応を引き出した。
これに対して、学習性無力感の実験では報酬(餌)ではなく罰を与えることにした。
柵に入れた犬を身動きできないよう拘束し、ベルを鳴らすと同時に電気ショックを与えたのだ。
実験者の予想では、これを学習した犬はベルの音を聞いただけで柵の外に逃げ出すようになるはずだった。
しかし実際には、犬は電気ショックから逃げようとせず、ただじっと耐えているだけだったのだ。
これは、何とかして危険を回避しようと考えるのではなく、自分の力ではどうにもならない災難だから我慢してやり過ごそうという風に考えてしまったのである。
鬱病患者もこの犬と同じことが起こっている。
人生の中でそれぞれ何らかの挫折を経験し、努力ではどうにもならないことがあると学習してしまった。
無力感に苛まれ、人生を諦めてしまっている状態なのだ。
何か成功経験でも舞い込んでくれば、この状態を脱却することができるのであろうが。
そもそも無気力なので、成功するための何らかの挑戦をすること自体が難しいのかもしれない。
失敗は自尊心を傷付けるが、自尊心が傷付くということは自己が否定されるということでもある。
失敗することで自尊心が今以上に傷付くのが怖いという不安から、行動すること自体を回避しようとする心理が、ニートや引き篭もりにあるのだろう。
また、人間が行動したり何かを考えたりする時、感情の影響がとても大きいということが関係していると考えられる。
よく、人間がいかに優れた生物であるかを説明する時、大脳新皮質の発達が挙げられる。
脳のこの部位の働きによって、高等な生物は理性的で合理的で分析的で計画的な判断ができる。
しかし、高次の部位である大脳新皮質が行う情報処理には時間がかかっていまう。
一方、下等な生物でも(言い換えれば生物進化の初期の頃から)身に付けている低次の脳は、不合理で感情的で本能的な判断を瞬時に下す。
つまり、よく考えて結論が出るよりも早く、人は直感的に結論を出してしまっているのだ。
例え熟考した結果が直感と違うものだったとしても、直感を無視はできない。
ある程度は(あるいはかなり大きく)感情の影響を受けてしまうのである。
人は労働をしなければいけない、当然のことだ。
憲法にそう書いてあるからではなく、働かないと収入が得られず、生きていけないからだ。
しかし、いざ学校へ行こう、働こう(そのためにまずハロワへ行こう)、となるとこれが中々難しい。
合理的な脳と不合理な脳が葛藤するからだ。
今までニートだったのに社会復帰するとなると、心理的な負担が大きい。
鬱病患者なら激しい動悸やめまい、吐き気などに襲われることだろう。
それだけのコストを支払って、見合うだけのリターンが果たしてあるのだろうか?
合理的な脳は「ある」と判断する、働かなければ死んでしまうが、働けば生きていけるのだ。
しかし不合理な脳は、恐らくリターンを過小評価するだろう。
例えば前述した学習性無力感の影響から、就活に失敗する不安を引き出したり、あるいは勤め先で嫌なことがあった経験を想起させる。
また、現在の社会状況を鑑みて、紹介されるのは低収入の非正規雇用ばかりだと予想し、これでは結局お先真っ暗じゃないかと考えてしまうかもしれない。
得られる保証の少ない(主観によっては全く無いかもしれない)リターンよりも、確実に起こる心理的負担というコストを天秤にかければ、リターンを追求するのは難しくなる。
正常性バイアスも作用しているだろう。
現在は家の中に引き篭もっていても、インターネットで多くの人と交流したり、様々な情報を得ることができる。
そこで自分と同じ鬱でニートの人と交流したり、そういった人が発信したSNSや書き込みを見ることで、「自分と同じような人は他にもいっぱいいるんだ」と安心することができる。
しかしそれは、大津波警報が発令されていたり緊急地震速報が流れている中、「周りの人は避難していないから、自分も避難しなくて大丈夫だろう」と考えるのと同じことだ。
「明日から頑張る」も決まり文句だが、きっと明日も頑張れない。
なぜなら、明日の自分は行動ができる別の誰かではなく、行動できなかった今日の自分の一日後の姿だからだ。
今日の自分がやりたくないことは、明日の自分だってやりたくないのである。
鬱から脱却して社会復帰するためには
どうすれば鬱病を克服できるのだろうか?
メジャーなのは心療内科で投薬治療を受けることだが、これは対処療法的で根本的な解決は難しい。
薬でできるのは、精神状態を安定させたり、眠りやすくしたりすることだけだ。
しかし、ニートや引き篭もりというのは、環境そのものが既に安定してしまっている。
社会との関わりが極めて少なく、刺激に変化がないため、精神状態が安定したところで社会復帰しようという気にはなれない。
ではどうするか?
社会復帰しようという気になるような刺激を受けられる環境に身を置くことだ。
そもそも人間の行動や考え方というものは、自身の周囲を取り巻く環境と自己との相互作用によって生じる。
わかりやすい例を挙げれば、喋るのが大好きな喧しい人間でも、図書館などに行けば黙りこむ。
環境から刺激を受けて、人間はそれに対する反応として行動を起こすのだ。
「うつは甘え」を完全に否定出来ないのは、正にこの点にある。
鬱病は、いざ社会に出てしまえば大抵は改善してしまうものなのだ。
難しいのは社会復帰をするまでと、新しい環境に慣れるまで。
しかし、そこまでの心理的負担はやはり無視できず、最悪ストレスに耐えかねて自殺――となったら目も当てられない。
だから精神科医も、家族や友人・知人も、あるいは鬱病患者自身ですらも、下手に追い込めば逆効果になる可能性を無視できない。
だから私のオススメは、環境を整備するということだ。
もちろん、ニートを家から追い出すような強行手段も、「働かなければいけない環境」に違いはないので全否定はしないが。
できればもっとポジティブで、個性に合致して潜在意識に訴えかけるような方法があればベターだろう。
例えば、沈没する船から色々な国の人を言葉ひとつで海へ飛び込ませるコピペのように。
イギリス人には 「紳士はこういうときに飛び込むものです」
ドイツ人には 「規則では海に飛び込むことになっています」
イタリア人には 「さっき美女が飛び込みました」
アメリカ人には 「海に飛び込んだらヒーローになれますよ」
ロシア人には 「ウオッカのビンが流されてしまいました、今追えば間に合います」
フランス人には 「海に飛び込まないで下さい」
日本人には 「みんなもう飛び込みましたよ」
中国人には 「おいしそうな魚が泳いでますよ」
北朝鮮人には 「今が亡命のチャンスですよ」
大阪人には 「阪神が優勝しましたよ」と伝えた。
参考文献
デイヴィッド・マクレイニー (2011) 思考のトリック 脳があなたをダマす48のやり方 二見書房
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