先日、川内原発が再稼働した。
原発反対派は例によって、原発の危険性を強調し反対運動に勤しんでいる。
一方、地元の商店街などは街が活気づくからと、原発再稼働を歓迎しているようだ。
私の地元・新潟にも刈羽原発(国内最大)があるが、地元からは推進の声も聞こえる(多数派かどうかはわからないが)。
今回は、原発の危険性について人が思考をする時、影響する認知バイアスを考えてみたい。
まず、原発推進派について。
前提として、原発は非常に危険である。
事故が起これば、爆発や放射性物質の影響で多くの死者が出る。
そして福一やチェルノブイリ同様に、人が住めない土地になる。
にも関わらず、何故、原発を容認するのか?
原発推進派の思考には正常性バイアスが影響している。
人間は自分の身に何か異常が起こった時、パニックに陥らないようにするためか、異常事態を受け入れたがらない傾向がある。
3.11の津波では逃げ遅れた人も多かったが、これには「自分だけは大丈夫だろう」「命に関わる大津波などそうそう来るものではない」と考える正常性バイアスは働いた影響もあるだろう。
かく言う私も、当時本屋で震度4程度の地震に襲われたが、「なんだ地震か」とスルーしてしまった。
本棚が結構揺れていたので、もう少し大きい地震だったら本棚が倒れて下敷きになっていたかもしれない。
原発事故も同様で、いつ取り返しのつかない大事故が発生するかわからない。
しかし、そのような事態はそうそう起こらないだろうという慢心、リスクの過小評価が、原発推進派の心にはあるはずだ。
一方、原発反対派の思考にも認知バイアスは影響している。
彼らは推進派とは逆に、リスクを過大評価する傾向にあるように思える。
原発事故などそうそう起こるものではない。
小規模な事故(とは言え死者が出た例もあるが)はいくらかあれど、取り返しのつかない大事故は、チェルノブイリや福一など極わずか。
しかも福一の場合は、不十分な管理体制に加え、想定を大きく越える地震と津波によるものだ。
ならば、充分な管理体制を徹底し、大災害も想定しておけば、やはり大きな事故が起こるとは考えづらい。
原発反対派を大きく後押しするのは、原発事故を経験した被災者の恐怖体験ではないだろうか。
個人の体験談というのは説得力があり、語り手は体験した恐怖の大きさ故に、同じことを繰り返すまいと必死になる。
これは戦争経験者などの話でも同様だ。
しかし、体験者は恐怖が大きかったがために、正常な(合理的な)判断ができなくなっている可能性を指摘したい。
そもそも人間が物事を判断する時、脳は感情と合理的思考をそれぞれ別に処理している。
これは、合理的思考を司る大脳新皮質が、進化の上で新しく発達した部位だからだ。
人類の発展は、脳の発達により高度な思考ができるようになったことが大きい。
ところが、人間がする判断には、より低次の情報処理である感情の影響がとても大きいのだ。
例えば、高所恐怖症の人がいる。
テレビのバラエティー番組などで、バンジージャンプを強要されたタレントが過度に怯えている姿をよく目にするのではないだろうか。
あれは演技も入っているのかもしれないが、ともかく高いところが怖いというのはよくある話しだろう。
しかし、しっかりとした柵のある建物の屋上、丈夫な足場の橋の上、ヒモでしっかり結ばれているバンジー。
合理的に考えれば、危険などあるはずもない。
にもかかわらず、怖いものは怖い。
何故か?
恐怖という感情が、合理的な思考を妨げているからだ。
原発が再稼働したからといって、事故が起こる可能性はゼロに近い。
集団的自衛権が容認されても、日本が侵略を受けるリスクは大して上がらないだろうし、徴兵してまで海外に自衛隊を大量投入するなど絶対にあり得ない。
しかし、事故や戦争を体験した人は、その恐怖から、実際に同じような事態が起こる可能性を過大評価しているのだ。
結論として。
原発は安全に充分配慮して、電力不足が決して起こらないよう効果的に運用するべきだ。
そして、ちらっと見ただけだが、NHKは川内原発が再稼働される時、実況中継のような過剰報道をしていると感じた。
公共放送として、国民の不安を煽るような報道姿勢はいかがなものか。
安全性と危険性・推進派と反対派の意見・一般市民の反応・地元の反応…といった情報を充分かつ正確に伝え、意見への偏りを助長するようなことがないよう、自分たちが及ぼす影響まで考慮した上で報道を行わなければならない。
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