> フォアグラは、ガチョウやカモなどに大量の餌を食べさせ脂肪肝の状態にした肝臓で、 フランス料理などに使われる食材。
> ファミマは「一般的に受け入れられている食材と認識して発売を決めていた。不快に思われた方には申し訳ない」(広報担当者)としている。
> http://www.47news.jp/smp/CN/201401/CN2014012401001950.html
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1786019.html
「文化にケチつけんな」
一言で言えばこれだけの話なのだが。
フォアグラの材料となるガチョウやアヒルは、その飼育過程で身動きできない環境下に置かれ、人の手で無理矢理に餌を流し込まれる。
これを残酷として、動物愛護団体などが抗議。
カリフォルニア州等では販売が禁止されている。
残酷といえば、日本でもケネディ大使がイルカ漁を批難。
日本のネット上でも、韓国の犬鍋(傷めつけてから殺した肉が美味いのだとか)などを中傷している。
「余所は余所、うちはうち」でいいんだから、一々難癖つけたり、避難されて過剰反応したりすることも本来ないと思うのだが。
未だに西洋は自己中心的文化観を持っているというか、自分たちに理解できないものは野蛮だと拒絶し、バッシングしているように感じられる。
それに対して、「西洋に倣え」を明治から続けている日本人にも呆れ果てたものではある。
さて。
では、食のための残酷行為は果たしてどれだけ問題なのだろうか?
フォアグラの飼育過程の残酷さは、確かに否定出来ない。
しかし、ならば他の家畜は問題ないのだろうか?
結局は人間の食用としてこの世に生を受け、飼育され、屠殺されるのが定めだ。
結果が変わらない以上、その過程がどうであろうと、容認するのも拒絶するのも人間のエゴに過ぎない。
畜産でなくても、例えば漁業。
生きて泳いでる魚をとるのは残酷ではないのか?
人間に食べられるために生まれてきた家畜より、生存するために生まれてきた野生生物を殺す方が、私には残酷に思える。
結局は、生存競争だ。
人間は下手に、圧倒的に地球を征服してしまったせいで、他の動物の保護にやっきになりがちだと感じられてならない。
人間としての主観を離れ、自然界を客観的に見渡した時。
そこに見えてくるのは、ヒトという種が食物連鎖の最上位にあるというただの構図だけだ。
残るのは人間が他の生物に勝ち得た、生殺与奪の権利。
その行使は人間の意思に委ねられている。
今回の問題は、その人間の意思が個々人、社会や文化によって異なるという点だ。
つまり、エゴとエゴの対決である。
どちらが正しいということもなく、どちらが間違っているということもない。
ただ、私見で一言申すのであれば。
いちいち揉めるな。
嫌なら食うな。食ってるやつを見るな。
自分たちの権利なんかを侵害されない限り、余所の文化にケチなどつけない方がいいということである。
――と、私自身も「動物愛護団体によるクレーム」という文化にケチをつけているというのが、今回のオチでした。
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