2015年8月18日火曜日

盗作者の心理

もちろん佐野研二郎の話です。

東京五輪のエンブレムのデザインが、ベルギーの劇場のロゴと酷似。
サントリーのトートバッグのデザインにも、「BEACH」やフランスパンなどコピペであることが明らかなものから、発想を盗用したと思われるものまで多数見つかっている。

http://zarutoro.livedoor.biz/archives/51889704.html


五輪エンブレムを巡っては、使用をやめるべきだという意見が出る中、IOCや舛添都知事など主催者側は使い続けたい意向を表明。
そしてベルギーのデザイナーが提訴。
しかし東京五輪大会組織委は愚かにも、ベルギーのデザイナー側を非難する声明を発表してしまった。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1850573.html


今回は、芸術家らの盗作問題について心理学的に考えてみたい。


盗作には二種類ある。
意図的な盗作と、意図しない盗作だ。

佐野研二郎の例で言えば、「BEACH」やフランスパンが意図的な盗作に当たる。
「BEACH」は字体や複雑な矢印の形状が完全に一致しており、フランスパンはネット上にアップされていた写真をそのまま使用しているのが明らかである。

何故、意図的な盗作をするのか?
こちらはあまり掘り下げる気がないので、ワイドショーなどでワイワイ言い合っているのを参考にして頂きたい。
ネタに困り、バレなきゃいいと思って・・・そんなところだろう。



本題として、意図しない盗作のケースを考えたい。

絵、物語、音楽…様々な作品で盗作疑惑は存在する。
しかし、それが本当に盗作なのかどうか、盗作だとしても意図的なのかどうか、判別することは困難である。
何故なら、芸術には人に好まれやすい傾向というものがあり、また、盗作したかどうかは創り手に自覚があるかどうかも重要だからだ。


意図しない盗作のケースの1つには、大衆に好まれる作品を作ろうとした結果、発想が既存の作品を被ってしまうということがある。

例えば、黄金比(1:1.618)を美しいと感じる。
例えば、能力の低い主人公が努力して成功するような、成長物語を読むのが面白い。
例えば、特定のテンポや曲調のものを聴くと心地よい。

宗教などの思想や民話など、作られた時代や場所が大きく離れているのに、とても似通っているということもある。
例えば、殺された神の死体から食物が生まれるハイヌウェレ型神話など。
また、日本神話において、イザナギに殺されたカグツチの死体から神々が生まれるという描写があるが、ギリシャ神話においても、メドゥーサの切られた首からペガサスが生まれるというような類似点がある。
これらは文化が伝播して影響を受けたとも考えられるし、人間の普遍的な価値観として、同じようなものが好まれ、同じような発想をした結果、同じようなものが生まれたのだとも考えられる。

東京五輪のエンブレムについても、当初なされていたのは主張はこのような方向性であった。
Tokyoの「T」を使おうとしてデザインをしたら、自然と同じような形になる、と。
しかし、上半分までならともかく、右下の楕円の縁のような部分が偶然被る可能性はかなり低くなるだろうが。

ただし、これは「盗作である」と言われたから、そのように感じるだけなのだという説明もできる。
一般的な用語ではないかもしれないが、「テキサス名射手の誤謬」という認知バイアスが存在する。
これは、まず壁に何十発という銃弾をデタラメに撃ち込み、その後でたまたま弾痕が集中している部分に的を描き足す。
すると、何も知らないで的と弾痕だけを見た人は、的に向かって正確に銃弾を撃ち込んだ優れたガンマンの仕業だと思い込んでしまうというものだ。
このように、人間は偶然の一致に意味を見出してしまう傾向がある
東京五輪のエンブレムの一件も、世界中に無数にある様々なデザインの中から、偶然にも酷似したベルギーの劇場のデザインを持ち出されたから、盗作であると確信してしまっているだけだという説明もできるのではないだろうか。

・・・しかし、サントリーの件で佐野研二郎が盗作を行ったことが明らかになったため、この説明では納得できないものがあるのだが。

もっとも、「別のデザイン(サントリーのトートバッグ)で盗作をしているから、五輪エンブレムも盗作だ」と決めつけてしまうのも認知バイアスだ。
東京五輪のエンブレムとサントリーのトートバッグとは全く別の話であり、サントリーのトートバッグで盗作をしたことが、東京五輪のエンブレムで盗作した証拠にはならない。
佐野研二郎が盗作の常習犯だったからと言って、佐野研二郎の作品全てが盗作であるとは言えないのだ。
盗作の常習犯が、たまたま既存のデザインと酷似した作品を自力で生み出したという可能性を、否定することはできない


続いて、意図しない盗作のケースの2つ目。
これが今回最も主張したいことで、芸術家の善性を信じたいという想いが前提にある説明なのだが。
つまり、盗作元の存在を忘却してしまったというケースだ。

佐野研二郎は「(ベルギーの劇場ロゴを)見たことがない」と主張している。
嘘を吐いているかどうかは本人にしかわからないが、仮にこれが嘘ではなかった場合。
実際にはこれを見たことがあり、しかし見たという経験を忘却したため、デザインだけが記憶に残ってしまったということが考えられる。

そもそも芸術家が作品を作る時、どのような心理的メカニズムが働いているのだろうか?

心理学に、S-O-R理論(Stimulus-Organism-Response Theory)というものがある。
人やその他の生物は、外界から何らかの刺激(S)を受けると、特定の反応(R)をする。
しかし、どのような反応をするかは個体差(O)によって異なるという考え方だ。
例えば、人が他者から暴力を受ければ、通常は怒りや悲しみといった感情を抱く。
しかし、暴力を受けたのがドMな性癖を持っている人なら、表出される感情の反応は喜びになるかもしれない。

芸術家は、芸術について勉強したり、他の芸術家の作品に触れたり、どのような作品が人に好まれるかといった情報を得るなどして、常に刺激を得ている。
そうして受けた刺激を知識や経験として自身に取り込み、自身に備わっている創造性と影響し合った結果、自身のオリジナル作品が創造されるのではないだろうか。

この過程において、芸術家は多くの作品に触れるだろう。
そこには他者の作品もあるし、次々浮かぶ自身のアイデアもある。
その中で、見聞きした他者の作品と自身のアイデアの記憶とを、明確に区別できるだろうか?

新しい作品についてのアイデアが浮かんだが、それが自身のオリジナルなのか、それとも以前どこかで見た他者の作品の記憶なのか。
特別有名なものや個人的に印象深い作品ならばともかく、世界中に無数にある作品に絶えず触れていれば、膨大な情報を整理する中で記憶に齟齬が生じてもおかしくない。

そもそも人間の記憶とは曖昧なものだ。
意識していないものは記憶に残りづらいし、強く印象に残る出来事の記憶でも、あとから得た情報などの影響で内容が改竄されることもある。
芸術家でなくても、例えば何らかの社会問題に対する自分の意見が、自身の内から生じたものか、あるいはテレビでコメンテーターなどが主張していた内容を、意識せずにそのまま自分の意見として使っているようなこともあるのではないだろうか。
自分自身のことを、自分が考えているほど理解できていないというのも、認知の大きな落とし穴である。



今回のまとめ。

盗作は、本人の自覚がない場合もあるので、意図的であるかどうかを判断することは難しい。
仮に既存の作品と酷似した、盗作疑惑のある作品があったからと言って、その制作者に悪意があったかどうかは制作者本人にしかわからない。
しかし、悪意の有無に関わらず、盗作であることが濃厚な作品は撤回するべきだ。
悪意がなく、盗作した記憶もないからと言って使い続けてしまえば、著作権など意味をなさなくなる。

東京五輪エンブレムの問題で重要なのは、佐野研二郎が意図的に盗作したかどうかではない。
既存の作品とあまりにも酷似しているという時点で、著作権の侵害と訴訟によるいざこざを避けるため、速やかに撤回するべきだということなのだ。

2015年8月13日木曜日

安保法案への私見

戦争法案という言葉をよく目に耳にするようになった。
近所でも共産党が張り紙や街宣車で必死にアピールしている。
あれもヘイトスピーチの規制対象にすればいいのに。


集団的自衛権について。
私の意見としては、 消極的に賛成、といったところ。
正直どちらでも良いのだが、現状では反対が多いようなので、たぶんYes/Noで訊かれたらYesと答える。


今回は、集団的自衛権の問題点や議論になってる点を挙げ、この問題について考えてみたい。


◆違憲か?

微妙なところ。
セーフといえばセーフにも思えるけど、アウトといえばアウトにも思える。
ただし、国民には憲法を守る義務があるが、憲法が普遍的に正しいわけではなく、改憲は憲法上認められている。 
違憲だから集団的自衛権は認められないという理屈は通らない。
・・・だったら改憲するのが一番良いのだが、世論調査の結果見ると厳しい。
安倍首相の支持率も、野党やマスゴミのネガティブキャンペーンに見事に乗せられた結果か、下がっているし(所詮は鳩山内閣を成立させた日本国民)。
とりあえずは憲法の範囲内ギリギリで法案を通し、国民が納得できた上で、改憲に持って行きたいといったところか。


◆政府は必要性の説明をきちんをやっているのか? 

やっていない。 
おそらく、できないのだろう。
後述する。


◆必要なのか? 

ホルムズ海峡の機雷掃海の話をしているが。
まぁ本来の目的とは違うだろう。

本命は、中国・ロシア・北朝鮮・ついでに韓国への牽制だろうか。
具体的に名前を出してしまうと、特定の国に対する軍事力の整備ということになり、相手国が「挑発を受けた」として侵攻する口実を与えかねないから、明言を避けているのだろう。

もしも中露あたりが本気で日本に侵攻してきたら、自衛隊だけではどうにもならない。
アメリカの協力が不可欠だ。
しかし、アメリカも一枚岩ではなく、共和党は親日的かつ好戦的で頼りになるが、民主党はいくらか中国寄り。
アメリカ国内世論からしても、人種がサラダボウルなため、どうまとまるのか不明瞭。
特に韓国系の移民などは、アメリカ国籍を得てアメリカで暮らしていても、アイデンティティは母国から持ち込んでいるので、アメリカの国益よりも韓国の国益を優先すると見られる。

以上のような理由から、アメリカとの同盟関係を強化して、有事には確実に協力して守られるようにしておく必要がある。

特に、共にアメリカと軍事同盟を結んでおきながら、韓国は日本の竹島を占拠している。
奪還する時には、韓国よりも日本に味方してもられるような関係を築いておく必要がある。


◆アメリカを攻撃する北朝鮮のミサイルをスルーしていいのか?

民主党(など?)が言うように、北のミサイルだけならアメリカが自力で対処すればいいかもしれない。
しかし、もしもこれが北だけではなかったらどうだろう?
中国やロシア、そして中東などの反米軍事国家。
これらが協力し合い、タイミングを合わせて、各国が持つミサイルを一斉に発射したら?
それら全てを、アメリカは撃墜できるだろうか。
そして、もし一発でも、経済の主要都市に攻撃を受けたら?
アメリカ国内は勿論、その経済的大打撃は日本にも及ぶ。
リーマン・ショックなど可愛いレベルの大不況が到来するに違いない。
更に万一、アメリカが滅ぶようなことにでもなったら?
中国は日本に侵攻してくるだろうし、強大な軍事力を持った国々で世界政治の主導権を巡り、第3次世界大戦が勃発するのではないだろうか。
そうなった場合、現在の日本の力では滅亡は免れない。

せめて日本の領空を飛来するミサイルくらいは撃墜しておくのが、日本の安全のためである。


◆何故いまなのか?

東アジアの安全保障環境の悪化と主張しているが、冷戦時より悪くなっているとも思えない。
ただ、本当はもっと早く整備しておくべきだったが、これまではできなかった。
今後必要になった時に無いと困るので、できる内にやっておいた方がいい。

例えば阪神淡路大震災の時。
自衛隊の災害派遣に対する法整備が不十分だったことから対応が遅れ、自衛隊がすぐに動いていれば救えたはずの命が多く失われたと言われている。

問題が起こってから整備するのでは遅い。
起こりうる事態を推測し、実際に問題が発生した時には対応できるようにしておかなければならない。 
それが今ならできそうだから、今やるという話。


◆日本は戦争に巻き込まれるの?

日米安保の時とか、戦争に関わる法案が出る度に、こういう脅し文句で反対する人間が出てくるけれど。
今まで戦争に巻き込まれたことはない、これが全て。 

また、中国などが日本に侵攻してくるリスクは、既にある
集団的自衛権がなければ日本は戦争をしないというのは幻想だ。


◆徴兵制になるの?

ならない。

集団的自衛権に反対する民主党の議員が、「あり得ない」って言っちゃったw
法案に反対なのではなく、自民のやることに反対したいだけなんだよね。
 http://news.livedoor.com/article/detail/10394267/

徴兵してまで数を揃えて出兵する必要は絶対にない。 

それに、本土を守るためならともかく、海外派遣のために徴兵された軍隊がモチベーション的な意味で使い物になるのか疑問。


◆どうして集団的自衛権には悪いイメージがあるの? 

マスゴミがそういう印象操作をしているから。

議論が尽くされていない?
与党が妥協点探っても、野党に議論する気がないのでは意味がない。

それで野党が採決を拒否したら強行採決?
議員としての責任を果たせと批難するべきところではないだろうか。

野党寄りの報道を続けた結果、世論調査で半数が反対しているという結果が出た?
与党が立場上、必要性を明言できない以上、マスゴミが好き勝手言って必要性を説明していくべきではないのか。



◇まとめ 

聖徳太子が言った「和をもって貴しとなす」という言葉の本当の意味は、

「自分と異なる意見を持つ相手の主張に対して、偏見や構えを持たず、素直に聞きなさい」

ということらしい(どこで聞いたかは残念ながら忘れてしまったが)。

相手の意見に対して、ある程度構えてしまうのは、認知心理学的にも仕方がないことではある。
ある程度相手の思考や行動を予測して、物事に構えて置かないと、情報処理が追いつかない。

しかし、それを踏まえた上で、素直な気持ちで相手の主張に耳を傾け、
それから冷静に、合理的な思考でもって物事を判断していかなければいけない。



グローバルに活躍する実業家などの中には、「戦争や大災害になったら海外に移住すればいい」と言う人もいる。
しかし、全ての日本国民がそれをできるわけではない。
生まれ育った日本に愛着があるのは勿論、外国へ移住するとなれば文化や環境の違いに適応して生活せねばならず、それはかなりの負担になる。

人間は社会的な動物であり、社会なくして人間は生きられない。

そして社会は、同じ社会に暮らす人々(成員)の協力、個々人の社会貢献によって成り立っている。

戦争になれば社会(国)を守るため、これまで暮らしてきた環境を維持するため、兵となって戦わなければならない。

「自分さえ災難に遭わなければ、他の成員などどうなっても構わない」
そのような人間は、社会を破綻させる害悪である。
社会に問題が発生する前に、移住でも何でもして我々の大切な社会から出て行ってもらいたい。


国防は、やって当たり前なのだ。
「やらなくてもいい」という意見が存在する時点で、その社会は既に異常である。
武装して侵略してきた相手に「非武装で抵抗する」などという選択肢はありえない。
凶器を持った強盗に対して、反撃も、防御も、警察への通報も、近隣住民に助けを求めることもせず、しかし自分は危害を受けず、金目の物も渡さないと言っているのと同じことだ。
理想を語るのは結構だが、現実を直視して現実的な対応をしなければならない。

その対応策として、
自宅に強盗撃退用の武器を用意することを個別的自衛権、
近隣住民と自警団を組織したりすることが集団的自衛権といったところか。
場合によっては防犯システムや警察としての国連軍も期待できるかもしれないが。
この例だと、警察や警備会社の幹部に強盗がいる状態なので、やはり集団的自衛権の整備は必要だろう。

原発の危険性に関わる認知バイアス

先日、川内原発が再稼働した。

原発反対派は例によって、原発の危険性を強調し反対運動に勤しんでいる。
一方、地元の商店街などは街が活気づくからと、原発再稼働を歓迎しているようだ。

私の地元・新潟にも刈羽原発(国内最大)があるが、地元からは推進の声も聞こえる(多数派かどうかはわからないが)。


今回は、原発の危険性について人が思考をする時、影響する認知バイアスを考えてみたい。


まず、原発推進派について。
前提として、原発は非常に危険である。
事故が起これば、爆発や放射性物質の影響で多くの死者が出る。
そして福一やチェルノブイリ同様に、人が住めない土地になる。
にも関わらず、何故、原発を容認するのか?

原発推進派の思考には正常性バイアスが影響している。

人間は自分の身に何か異常が起こった時、パニックに陥らないようにするためか、異常事態を受け入れたがらない傾向がある。
3.11の津波では逃げ遅れた人も多かったが、これには「自分だけは大丈夫だろう」「命に関わる大津波などそうそう来るものではない」と考える正常性バイアスは働いた影響もあるだろう。
かく言う私も、当時本屋で震度4程度の地震に襲われたが、「なんだ地震か」とスルーしてしまった。
本棚が結構揺れていたので、もう少し大きい地震だったら本棚が倒れて下敷きになっていたかもしれない。

原発事故も同様で、いつ取り返しのつかない大事故が発生するかわからない。
しかし、そのような事態はそうそう起こらないだろうという慢心、リスクの過小評価が、原発推進派の心にはあるはずだ。


一方、原発反対派の思考にも認知バイアスは影響している。
彼らは推進派とは逆に、リスクを過大評価する傾向にあるように思える。

原発事故などそうそう起こるものではない。
小規模な事故(とは言え死者が出た例もあるが)はいくらかあれど、取り返しのつかない大事故は、チェルノブイリや福一など極わずか。
しかも福一の場合は、不十分な管理体制に加え、想定を大きく越える地震と津波によるものだ。
ならば、充分な管理体制を徹底し、大災害も想定しておけば、やはり大きな事故が起こるとは考えづらい。

原発反対派を大きく後押しするのは、原発事故を経験した被災者の恐怖体験ではないだろうか。
個人の体験談というのは説得力があり、語り手は体験した恐怖の大きさ故に、同じことを繰り返すまいと必死になる。
これは戦争経験者などの話でも同様だ。

しかし、体験者は恐怖が大きかったがために、正常な(合理的な)判断ができなくなっている可能性を指摘したい。
そもそも人間が物事を判断する時、脳は感情と合理的思考をそれぞれ別に処理している。
これは、合理的思考を司る大脳新皮質が、進化の上で新しく発達した部位だからだ。
人類の発展は、脳の発達により高度な思考ができるようになったことが大きい。
ところが、人間がする判断には、より低次の情報処理である感情の影響がとても大きいのだ。

例えば、高所恐怖症の人がいる。
テレビのバラエティー番組などで、バンジージャンプを強要されたタレントが過度に怯えている姿をよく目にするのではないだろうか。
あれは演技も入っているのかもしれないが、ともかく高いところが怖いというのはよくある話しだろう。
しかし、しっかりとした柵のある建物の屋上、丈夫な足場の橋の上、ヒモでしっかり結ばれているバンジー。
合理的に考えれば、危険などあるはずもない。
にもかかわらず、怖いものは怖い。
何故か?
恐怖という感情が、合理的な思考を妨げているからだ。

原発が再稼働したからといって、事故が起こる可能性はゼロに近い。
集団的自衛権が容認されても、日本が侵略を受けるリスクは大して上がらないだろうし、徴兵してまで海外に自衛隊を大量投入するなど絶対にあり得ない。
しかし、事故や戦争を体験した人は、その恐怖から、実際に同じような事態が起こる可能性を過大評価しているのだ。



結論として。
原発は安全に充分配慮して、電力不足が決して起こらないよう効果的に運用するべきだ。
そして、ちらっと見ただけだが、NHKは川内原発が再稼働される時、実況中継のような過剰報道をしていると感じた。
公共放送として、国民の不安を煽るような報道姿勢はいかがなものか。
安全性と危険性・推進派と反対派の意見・一般市民の反応・地元の反応…といった情報を充分かつ正確に伝え、意見への偏りを助長するようなことがないよう、自分たちが及ぼす影響まで考慮した上で報道を行わなければならない。