2014年2月20日木曜日

ソチ五輪関連:竹田氏の発言、そもそも日本を代表するということについて

ソチ五輪開幕から間もなくして、竹田恒泰氏の発言が物議を醸した。

「選手を送り出すのに国費を使っているのだから、負けてへらへらしてんな」

凡そこのような内容だった。
賛否両論(主に批判)あったようだが、私はある程度同感だった。
竹田氏がどのような意図でこのコメントしたのかは置いておいて、私はこの発言を聞いた時、私自身が常々感じていた、日本人スポーツ選手への不満を想起させられたのだ。

それは、日本人は「国を背負う」ということに対して鈍感なところがあるというものだ。

「期待に応えられるよう頑張りたい」だとか。
「先人への感謝の気持を込めて」といった発言がよく見られることから、
私が選手に抱いていて欲しいと願う感覚を、全く理解していないということはないと思うのだが。
やはり、少しズレている。


オリンピックやサッカーのワールドカップなどは、一種の戦争のようなものだと思う。
勝ったからといって領土だの金だの権利だのが得られるわけではなく。
負けたからといって、何かを奪われるわけではない。
ただし、その戦いには、国の威信・プライドが賭けられている。
その戦争のために国民の代表として選ばれるのが、各種目の選手たちだ。

これは、日本国憲法で定められた天皇の立場と似ているのではないだろうか。
天皇は、日本国と日本国民の象徴である。
故に、某国の前大統領のように天皇陛下を侮辱した発言は、日本全ての侮辱であると同義であった。
そして日本代表のスポーツ選手。
これも天皇と同じことだ。
各種目において国を背負い、代表として戦う彼らは、その種目における日本の象徴的存在なのだ。


こういったこと言われると、重いと感じる選手が多いだろう(特に日本人には)。
「自分はその競技が好きだからやってるだけだ」
「国は国、個人は個人。日本代表だろうと、自分は自分」
「勝手に期待して勝手に失望しないでくれ」

勿論、どういう気持ちで競技に挑もうが、それは選手の自由だろう。
期待がプレッシャーにしかならないのであれば、無視したって構わない。
国を背負うという意識が低いのが国民性だと言ってしまえば、それまでの話と言えなくもない。

しかし、問題はもっと根本的なところにあると私は考える。
日本人が国を背負えないのは、遺伝に基づく先天的特性ではなく、学習に基づく後天的特性ではないかと考えているからだ。
要は、愛国心教育が足りないのである。
足りないというか、そもそも無いというか、むしろ自虐的なのだ。

私は韓国が大嫌いだが、ひとつだけ彼らが羨ましいと思うところがある。
それは、彼らは愛国心に満ちているという点だ。
韓国のレベルまでいくと過剰だし、正確には母国を愛しているのではなく日本が嫌いなだけかもしれないが…。
ともかく、サッカーや野球における韓国代表は、日本を相手にすると異様に強いのだ。
どちらの競技にしても、日本代表のレベルは韓国のそれを上回っている。
だが、日韓戦となると、なかなか勝てない。見てるこっちも勝てる気がしない。
韓国は日韓戦となるだけで、通常の数割増しの力を発揮してくるのだ。
何故このような事態になるのか?
簡単だ、モチベーションの違いである。
韓国は、選手もサポーターも「日本だけには負けられない!」という強すぎる気持ちで向かってくる。
対する日本はどうか?
日韓戦と聞いてもメディアが多少“ライバル”と煽るだけで、良くて「隣にあるというだけで、他の国と変わらない」、最悪「互いを高め合う好敵手」という意識を持っている、持たされている。
日本が韓国に「無関心or友好的」に挑むのに対して、韓国は「憎悪と敵愾心」で向かってくる。
勝てないのも道理というものだ。

別に韓国を見習って、反韓教育を行えだとか、「我が国万歳(ウリナラマンセー)」を叫ばせろとは言わない。
しかし、せめてもう少し、日本を代表する者として、誇りを持てるようにして欲しい。
国民の期待を重りではなく、モチベーションに変えられるようになって欲しい。
その辺は安倍ちゃんの道徳教育の改訂にかかっていると思うので、頑張って欲しい。



そんなわけで。
恐らく竹田さんはこういうことが言いたかったんじゃないのかな?と思って書いてみたわけだけれど。
実際のところはわかりません。
それに竹田さんへの批判にあったような、「日本はスポーツ支援に大して金出してない!」というのも事実ではあるのだろうし。
基本的に日本人は、大学出てサラリーマンになるのが普通だから…。
スポーツするより、車や家電作るのがメインだから…。
イチかバチかの夢よりも堅実な道を行くのが国民性だから…。
だから予算が割けないのもしょうがないというのもわかり、しかしオリンピックでメダル取ると嬉しいから頑張って欲しいという想いもあり…。
なかなか難しいジレンマである。

だからこそ、そんな中でも頑張ってメダルを取ることは嬉しいし、誇らしい。
羽生選手が表彰台の真ん中で、しっかり国歌歌ってる姿は本当に素晴らしかった。

「おめでとう」
「お疲れ様」
「感動をありがとう」

頑張って良い成績を残してきた選手に掛ける言葉は数あれど。
私は何より、こう思う。

「日本にメダルをもたらしてくれて、ありがとう」

2014年2月7日金曜日

佐村河内事件におけるマスコミの責任

全聾の作曲家・佐村河内守氏は自身で作曲をしておらず、新垣隆氏がゴーストライターを務めていたことが明らかになった。

また、16万枚ほどを売り上げたという『HIROSHIMA』は、はじめ『現代典礼』というタイトルで創作されたことも明かされた。
「典礼」はキリスト教の儀式を指す言葉なので、原爆など一切関係ない宗教音楽だったということだろう。
「被爆二世だという佐村河内氏」が「原爆」をテーマに作曲した楽曲である、という付加価値は非常に大きいものだったはずだ。
新垣氏による『HIROSHIMA』がいかに優れた楽曲であったとしても、付加価値を失った評価は急落を避けられない。

最大の問題点は、新垣氏が会見で明かした「佐村河内氏は全聾ではない」という証言だ。
録音した曲を佐村河内氏が耳で聴いてチェックしていたという。
これが事実であれば、佐村河内氏は相当に悪質な詐欺師であると言わざるをえない。


今回、新垣氏は「共犯者としての謝罪」という形で会見を行った。
この際、同様に共犯者として扱われるべき存在がいる。
佐村河内氏の特集番組を制作・放送したマスコミだ。

彼の特集は、wikiによれば『NHKスペシャル』、『金スマ』、『めざましテレビ』で放送されたという。
この内、『NHKスペシャル』、『金スマ』を私は昨日・今日で視聴した。

『金スマ』に関しては、おそらく取材回数自体が少なかったのだろう。
主に自伝の再現VTRと、SMAP稲垣の直接取材という構成だった。
その中には、稲垣が佐村河内氏の背後から、「(これが)HIROSHIMA(の楽譜)ですか?」と話しかけ、一切稲垣の口も手話も見ず、「そうですね」と返答しているシーンが映っている。
返答の後で手話を見ていたが、十中八九聞こえていたのだろう。
しかし、取材の少なさから、彼のトリックを見抜くことができなかったとしても不思議ではない。

問題はNHKだ。
NHKは複数回に渡り、密着した取材を行っている。
作曲の瞬間は「神聖なものだから」という理由で取材拒否をされたとのことで、これについては芸術家特有の拘り、気難しさとして納得できる。
故に、NHKが謝罪した「ゴーストライターを見抜けなかった」ことについては問題ないと考える。
しかし、全聾であるという嘘くらいには気付いて然るべきではなかったのか。
取材に同行した手話通訳者を用意したのが佐村河内氏側だったのかNHK側だったのかは不明だが、仮に後者だった場合、手話通訳者は違和感を覚えなかったのか。
もし、NHKが彼の嘘に気付きつつ見逃していたとすれば、NHKも立派な共犯者だ。
逆に、こんなことにすら全く気付けなかったのだとすれば、NHKの取材能力を疑わずにいられない。


公平だの中立だのを謳うNHKだが、案外、彼らも演出に気を使う。
私が大学生だった時分、ゼミの教授がNHKの番組に特集される機会があった。
その際、「研究してる画が欲しいから、暇なゼミ生は集まって欲しい」と前もって教授から言われていた(これがNHKからの要請なのか、教授の考えだったのかは知らない)。
私は集まらなかったが、後日、放送された番組を見た。
冒頭、いかにも「我々のゼミではこんな実験をしています!」という実験場面の画から放送が始まっていたが、実態とはかなり異なる。
まず、そのゼミでは、各々研究テーマが全く異なるため、「ゼミとしての研究」といったものはない。
週イチで行われるゼミでは、各々の研究テーマについて、調べてきたことや研究の進捗状況などをプレゼンするだけのもの。
それ以外に、実験等でゼミ生同士が集まる機会は一切ない。
また、冒頭の実験場面(教授が実験者となり、ゼミ生が被験者となっていた)で道具が用いられたが、これは教授自身が行う最近の実験では使われないものだった。
多忙で実験機会自体が少なくなっている教授だが、実験の際には外部の研究施設にて、もっと大掛かりな装置を利用しているとのことだった。

結局は、インパクト重視な演出だったのだ。
「いかにも!」な画が欲しかったのだろう。
そのために実態とズレた行動を出演者に求める。
民放ほどにヤラセがなくクリーンなイメージがあるかもしれないNHKだが。
所詮、NHKも同じ穴の狢に過ぎないのだ。