2015年8月13日木曜日

原発の危険性に関わる認知バイアス

先日、川内原発が再稼働した。

原発反対派は例によって、原発の危険性を強調し反対運動に勤しんでいる。
一方、地元の商店街などは街が活気づくからと、原発再稼働を歓迎しているようだ。

私の地元・新潟にも刈羽原発(国内最大)があるが、地元からは推進の声も聞こえる(多数派かどうかはわからないが)。


今回は、原発の危険性について人が思考をする時、影響する認知バイアスを考えてみたい。


まず、原発推進派について。
前提として、原発は非常に危険である。
事故が起これば、爆発や放射性物質の影響で多くの死者が出る。
そして福一やチェルノブイリ同様に、人が住めない土地になる。
にも関わらず、何故、原発を容認するのか?

原発推進派の思考には正常性バイアスが影響している。

人間は自分の身に何か異常が起こった時、パニックに陥らないようにするためか、異常事態を受け入れたがらない傾向がある。
3.11の津波では逃げ遅れた人も多かったが、これには「自分だけは大丈夫だろう」「命に関わる大津波などそうそう来るものではない」と考える正常性バイアスは働いた影響もあるだろう。
かく言う私も、当時本屋で震度4程度の地震に襲われたが、「なんだ地震か」とスルーしてしまった。
本棚が結構揺れていたので、もう少し大きい地震だったら本棚が倒れて下敷きになっていたかもしれない。

原発事故も同様で、いつ取り返しのつかない大事故が発生するかわからない。
しかし、そのような事態はそうそう起こらないだろうという慢心、リスクの過小評価が、原発推進派の心にはあるはずだ。


一方、原発反対派の思考にも認知バイアスは影響している。
彼らは推進派とは逆に、リスクを過大評価する傾向にあるように思える。

原発事故などそうそう起こるものではない。
小規模な事故(とは言え死者が出た例もあるが)はいくらかあれど、取り返しのつかない大事故は、チェルノブイリや福一など極わずか。
しかも福一の場合は、不十分な管理体制に加え、想定を大きく越える地震と津波によるものだ。
ならば、充分な管理体制を徹底し、大災害も想定しておけば、やはり大きな事故が起こるとは考えづらい。

原発反対派を大きく後押しするのは、原発事故を経験した被災者の恐怖体験ではないだろうか。
個人の体験談というのは説得力があり、語り手は体験した恐怖の大きさ故に、同じことを繰り返すまいと必死になる。
これは戦争経験者などの話でも同様だ。

しかし、体験者は恐怖が大きかったがために、正常な(合理的な)判断ができなくなっている可能性を指摘したい。
そもそも人間が物事を判断する時、脳は感情と合理的思考をそれぞれ別に処理している。
これは、合理的思考を司る大脳新皮質が、進化の上で新しく発達した部位だからだ。
人類の発展は、脳の発達により高度な思考ができるようになったことが大きい。
ところが、人間がする判断には、より低次の情報処理である感情の影響がとても大きいのだ。

例えば、高所恐怖症の人がいる。
テレビのバラエティー番組などで、バンジージャンプを強要されたタレントが過度に怯えている姿をよく目にするのではないだろうか。
あれは演技も入っているのかもしれないが、ともかく高いところが怖いというのはよくある話しだろう。
しかし、しっかりとした柵のある建物の屋上、丈夫な足場の橋の上、ヒモでしっかり結ばれているバンジー。
合理的に考えれば、危険などあるはずもない。
にもかかわらず、怖いものは怖い。
何故か?
恐怖という感情が、合理的な思考を妨げているからだ。

原発が再稼働したからといって、事故が起こる可能性はゼロに近い。
集団的自衛権が容認されても、日本が侵略を受けるリスクは大して上がらないだろうし、徴兵してまで海外に自衛隊を大量投入するなど絶対にあり得ない。
しかし、事故や戦争を体験した人は、その恐怖から、実際に同じような事態が起こる可能性を過大評価しているのだ。



結論として。
原発は安全に充分配慮して、電力不足が決して起こらないよう効果的に運用するべきだ。
そして、ちらっと見ただけだが、NHKは川内原発が再稼働される時、実況中継のような過剰報道をしていると感じた。
公共放送として、国民の不安を煽るような報道姿勢はいかがなものか。
安全性と危険性・推進派と反対派の意見・一般市民の反応・地元の反応…といった情報を充分かつ正確に伝え、意見への偏りを助長するようなことがないよう、自分たちが及ぼす影響まで考慮した上で報道を行わなければならない。

2015年7月30日木曜日

世界遺産推薦を逃して新潟のメディアがお通夜

28日16時
文化審議会は2017年の世界遺産登録を目指す4つの候補の中から、福岡の「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」を推薦すると決定した。


同時刻。
日テレ系列のローカル番組『新潟一番』では、県内から候補に上がっていた「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」を応援すべく特集。
佐渡から中継し、世界遺産登録を推進してきた団体の代表を呼ぶなどしていた。
しかし、16時を過ぎても連絡はなく、待っている間に他のVTRを流していたが・・・。
VTRの途中で推薦を逃したとの報が入り、VTRを中断してこれを伝えた。


翌29日
新潟唯一の地方紙である新潟日報は一面で、佐渡が世界遺産への推薦を逃したと報じた。


決定の前。
『新潟一番』は「宗像・沖ノ島と関連遺産群」に対し、今年登録された「明治日本の産業革命遺産」の多くが九州であることから、連続して九州を推さないのではという見解を見せていたが。

しかし、それを言えば佐渡金山も、産業革命遺産と印象が被るのではないだろうか?

そもそも、「明治日本の産業革命遺産」が登録されるまでの経緯(韓国がごねて、「forced to work」という表現を使わされた)を考えれば、今回、佐渡金山を見送ったのは至極妥当な判断だったと思える。

既に韓国は佐渡金山に対し、以下の様な動きを見せているのだ。

 > 韓国外交省報道官は5月の定例記者会見で「佐渡鉱山の遺産群」に触れ、「日中戦争以来、約1000人程度の朝鮮人が強制労働をしたと把握している。登録推進の動きを注視している」と述べた。
 > 韓国紙「文化日報」は、韓国政府関係者の話として、「日本が登録を推進すれば、『明治日本の産業革命遺産』のように外交問題になる可能性がある」と指摘している。
http://jiyusoku.jp/archives/6146

この状況で佐渡金山を推薦するわけがないと思うのは、私だけだろうか?


「明治日本の産業革命遺産」からして、今年の登録にこだわるべきではなかったと私は思う。
アウシュヴィッツのように、負の世界遺産として登録されているものもいくつかある。
しかし、「明治日本の産業革命遺産」は基本的に正の世界遺産として登録すべきもの、国民や地元の人間がこれを誇りに思うものとして登録を目指したのではないのか?
韓国にケチをつけられ、これを説得できなかった時点で、韓国を完全に無視するなり、いっそ取り下げるなりしても良かったはずだ。


佐渡金山にも、朝鮮人に限らず、強制労働が行われたという事実はある。
しかし、少なくとも現代の人間にとって佐渡金山は、江戸幕府の重要な財源となっていたものであり、地元の人間にとっては貴重な観光資源だ。
私も小学校の修学旅行で佐渡を訪れたが、砂金取り体験などができて楽しかった思い出がある。

これを安易に、負の世界遺産とされるリスクを背負って、性急な登録を目指すべきではないだろう。

佐渡金山の世界登録には、日韓関係の変化が欠かせない。
それが友好であるか、断交であるかは、佐渡には関係のない話だが。



ちなみに、今回私が応援していたのは「百舌鳥・古市古墳群」だった。
世界最大のお墓・大仙陵古墳は、何故未だに世界遺産に登録されていないのか、不思議なくらいだ。
ユネスコの調査委員が入らせてもらえないのが理由のようだが。
「世界の遺産」というより、「日本の遺産」・「天皇家の遺産」としての向きが大きいせいか。
どこかでうまく折り合えることを期待したい。

2015年6月30日火曜日

【心理学的に考えた】 「うつは甘え」か?

「うつは甘え」

よく聞くフレーズだが、私はこの考えを100点満点で30点くらいだと思っている。
全くの的外れと言うほどではないが、しかし、正確な認識には程遠い。

今回は鬱病や、人が鬱病を甘えであると考えることについて、認知心理学的に考えてみたい。
(あまり精神医学の方面には突っ込まないので、予めご理解頂きたい)


まず、鬱病患者の心理状態・症状などをいくつか挙げてみよう。

・ やる気がおきない、無気力
・ 落ち込んでいる
・ 食欲不振(あるいは食べ過ぎ)
・ 睡眠障害(寝付けない、夜中に目が覚めて寝直すことができない等)

症状自体は、普通の人でも割りと日常的に起こるものだ。
大抵はこういった症状が2週間続くと、鬱病であると診断される。

しかし、日常的に起こるものであるからこそ、鬱病を過小に評価しがちなのではないだろうか。
これは鬱病患者を甘えているだけだと批判するだけでなく、自分が鬱病であることを自覚できないことにも繋がる。


身内の話だが、私の祖母は夜中に何度も目を覚ましては、トイレに行き、眠れないとソファーに座ってぼけーっとしている。
やがて眠くなったら再び床に就くのだが、1時間もすればまた目を覚ます。これを朝まで繰り返す。
人間は大体90分周期でレム睡眠(浅い眠り)とノンレム睡眠(深い眠り)を繰り返すのだが、祖母の場合はレム睡眠の周期に入る度に目を覚ましている計算だ。

また、祖母の娘である私の母も、睡眠の質は低い。
寝付くのは早いのだが、寝返りを打つごとに目を覚ましていると本人は言っている。
私は一度眠ってしまうと朝まで決して目が覚めないので、ちょっと理解できない感覚である。

祖母も母も、おそらく睡眠障害を患っているのではないかと私は見ている。
しかし、両人とも社会人ではなく、生活に支障はないようなので精神科・心療内科の診察を強く勧めてはいないが。
(軽く提案することはあるが、嫌がる)


wikiの鬱病の頁によれば、日本人が一生の内で鬱病になる確率(生涯有病率)は、6.7%。
世界では3~16%とのことだ。

この数字がどうやって出てきたのかはよくわからないが・・・。
まさか医療機関で鬱病患者の数を調べたり、あるいは「あなたは鬱病になったことがありますか?」などと聞いて回ったわけではあるまいな?
病気になっても医者に行かない人もいるし、自分が病気であるという認識(病識)がない場合も多い。
何より、鬱病の世間的な印象の悪さや、「自分だけは大丈夫だ」という正常性バイアスに影響されて、自力で解決したがる人も多いのではないか。

ともかく、症状の重さや苦しむ期間を別にすれば、鬱病は割りと誰にでも起こりうるものだと考えておいて欲しい。





「うつは甘え」だと批判する人の心理

鬱病の人を甘えだと叩くのは、主にニートや登校拒否などになっているケースではないだろうか。
しかし、例えば会社の同僚が鬱で長期休暇をとったり辞職するなどして、人員に穴が空いて仕事が回らなくなるような場合なら、そのお怒りもごもっともなのだが。
しかし、そうでない場合、または上のような経験をしたことがあったとしても、当人以外の鬱病患者を叩くというのはおかしな行動ではないだろうか?
自分に直接の利害をもたらさない誰かが鬱になろうがどうしようが、自分とは何も関係もないはずなのだ。
何故人は、鬱病患者を悪く言うのだろう?

これは公共財供給共有地の悲劇で説明できる。
簡単に解説すると、みんなが社会のために貢献していればみんなが利益を得ることができるシステムがあった時、何らかのズルをする人間がいれば、やがてそのシステムは破綻してしまう。
人はだまされたり、(コストの面でもリターンの面でも)自分だけが損をするのは嫌なので、ズルをする人間を許せないという話だ。
つまり、自分たちは苦労して働いている(学校に行っている)のに、それをせず遊んでいるニートを見ると、自分が貧乏くじを引いたような気分になり、ニートが羨ましく思えてしまうのだ。
実際は隣の芝が青く見えるだけで、自分たちは労働の対価に給料を得ているし、鬱病ニートからすれば元気に働けている人が羨ましいのではないかと思うのだが。

同じことが、ナマポ(特に、必要もないのに生活保護を受給している人)やアフィ厨などにも当てはまるだろう。
これらは、同時に公正世界仮説の考え方も影響していると考えられる。
公正世界仮説とは、世の中は公正であるという信念のことで、「善良に生きていれば幸福になれる(不幸なことは起こらない)」だとか「悪人にはやがて天罰が下るだろう」といった考え方だ。
現実にはどんなに善良に生きていても、不慮の事故や病気で不幸な結末を迎える確率は悪人と変わらないのだが、そうは考えたくないのだ。
人は不公正な世界を容認出来ない。
だから、善良な自分を差し置いて、怠け者なのに生活に困らないニートやナマポが許せないし、不正受給問題で芸人が干されると気分が良いのだ。





働けない鬱病患者の心理

それでは、そもそも何故、鬱病患者は働かないのかを考えてみよう。

一つには、学習性無力感に陥っているケースが挙げられる。
学習性無力感は、かの有名なパブロフの犬をパクった実験で偶然発見された。
パブロフの場合は、犬に餌を与えると同時にベルを鳴らすことで、「ベルがなれば餌がもらえる」ことを学習させ、やがてベルを鳴らすだけで犬は涎を垂らすという反応を引き出した。
これに対して、学習性無力感の実験では報酬(餌)ではなく罰を与えることにした。
柵に入れた犬を身動きできないよう拘束し、ベルを鳴らすと同時に電気ショックを与えたのだ。
実験者の予想では、これを学習した犬はベルの音を聞いただけで柵の外に逃げ出すようになるはずだった。
しかし実際には、犬は電気ショックから逃げようとせず、ただじっと耐えているだけだったのだ。
これは、何とかして危険を回避しようと考えるのではなく、自分の力ではどうにもならない災難だから我慢してやり過ごそうという風に考えてしまったのである。

鬱病患者もこの犬と同じことが起こっている。
人生の中でそれぞれ何らかの挫折を経験し、努力ではどうにもならないことがあると学習してしまった。
無力感に苛まれ、人生を諦めてしまっている状態なのだ。
何か成功経験でも舞い込んでくれば、この状態を脱却することができるのであろうが。
そもそも無気力なので、成功するための何らかの挑戦をすること自体が難しいのかもしれない。
失敗は自尊心を傷付けるが、自尊心が傷付くということは自己が否定されるということでもある。
失敗することで自尊心が今以上に傷付くのが怖いという不安から、行動すること自体を回避しようとする心理が、ニートや引き篭もりにあるのだろう。



また、人間が行動したり何かを考えたりする時、感情の影響がとても大きいということが関係していると考えられる。
よく、人間がいかに優れた生物であるかを説明する時、大脳新皮質の発達が挙げられる。
脳のこの部位の働きによって、高等な生物は理性的で合理的で分析的で計画的な判断ができる。
しかし、高次の部位である大脳新皮質が行う情報処理には時間がかかっていまう。
一方、下等な生物でも(言い換えれば生物進化の初期の頃から)身に付けている低次の脳は、不合理で感情的で本能的な判断を瞬時に下す。
つまり、よく考えて結論が出るよりも早く、人は直感的に結論を出してしまっているのだ。
例え熟考した結果が直感と違うものだったとしても、直感を無視はできない。
ある程度は(あるいはかなり大きく)感情の影響を受けてしまうのである。

人は労働をしなければいけない、当然のことだ。
憲法にそう書いてあるからではなく、働かないと収入が得られず、生きていけないからだ。
しかし、いざ学校へ行こう、働こう(そのためにまずハロワへ行こう)、となるとこれが中々難しい。
合理的な脳と不合理な脳が葛藤するからだ。
今までニートだったのに社会復帰するとなると、心理的な負担が大きい。
鬱病患者なら激しい動悸やめまい、吐き気などに襲われることだろう。
それだけのコストを支払って、見合うだけのリターンが果たしてあるのだろうか?
合理的な脳は「ある」と判断する、働かなければ死んでしまうが、働けば生きていけるのだ。
しかし不合理な脳は、恐らくリターンを過小評価するだろう。
例えば前述した学習性無力感の影響から、就活に失敗する不安を引き出したり、あるいは勤め先で嫌なことがあった経験を想起させる。
また、現在の社会状況を鑑みて、紹介されるのは低収入の非正規雇用ばかりだと予想し、これでは結局お先真っ暗じゃないかと考えてしまうかもしれない。
得られる保証の少ない(主観によっては全く無いかもしれない)リターンよりも、確実に起こる心理的負担というコストを天秤にかければ、リターンを追求するのは難しくなる。



正常性バイアスも作用しているだろう。
現在は家の中に引き篭もっていても、インターネットで多くの人と交流したり、様々な情報を得ることができる。
そこで自分と同じ鬱でニートの人と交流したり、そういった人が発信したSNSや書き込みを見ることで、「自分と同じような人は他にもいっぱいいるんだ」と安心することができる。
しかしそれは、大津波警報が発令されていたり緊急地震速報が流れている中、「周りの人は避難していないから、自分も避難しなくて大丈夫だろう」と考えるのと同じことだ。



「明日から頑張る」も決まり文句だが、きっと明日も頑張れない。
なぜなら、明日の自分は行動ができる別の誰かではなく、行動できなかった今日の自分の一日後の姿だからだ。
今日の自分がやりたくないことは、明日の自分だってやりたくないのである。





鬱から脱却して社会復帰するためには

どうすれば鬱病を克服できるのだろうか?
メジャーなのは心療内科で投薬治療を受けることだが、これは対処療法的で根本的な解決は難しい。
薬でできるのは、精神状態を安定させたり、眠りやすくしたりすることだけだ。
しかし、ニートや引き篭もりというのは、環境そのものが既に安定してしまっている。
社会との関わりが極めて少なく、刺激に変化がないため、精神状態が安定したところで社会復帰しようという気にはなれない。

ではどうするか?
社会復帰しようという気になるような刺激を受けられる環境に身を置くことだ。

そもそも人間の行動や考え方というものは、自身の周囲を取り巻く環境と自己との相互作用によって生じる。
わかりやすい例を挙げれば、喋るのが大好きな喧しい人間でも、図書館などに行けば黙りこむ。
環境から刺激を受けて、人間はそれに対する反応として行動を起こすのだ。

「うつは甘え」を完全に否定出来ないのは、正にこの点にある。
鬱病は、いざ社会に出てしまえば大抵は改善してしまうものなのだ。
難しいのは社会復帰をするまでと、新しい環境に慣れるまで。
しかし、そこまでの心理的負担はやはり無視できず、最悪ストレスに耐えかねて自殺――となったら目も当てられない。
だから精神科医も、家族や友人・知人も、あるいは鬱病患者自身ですらも、下手に追い込めば逆効果になる可能性を無視できない。

だから私のオススメは、環境を整備するということだ。
もちろん、ニートを家から追い出すような強行手段も、「働かなければいけない環境」に違いはないので全否定はしないが。
できればもっとポジティブで、個性に合致して潜在意識に訴えかけるような方法があればベターだろう。
例えば、沈没する船から色々な国の人を言葉ひとつで海へ飛び込ませるコピペのように。

イギリス人には 「紳士はこういうときに飛び込むものです」
ドイツ人には 「規則では海に飛び込むことになっています」
イタリア人には 「さっき美女が飛び込みました」
アメリカ人には 「海に飛び込んだらヒーローになれますよ」
ロシア人には 「ウオッカのビンが流されてしまいました、今追えば間に合います」
フランス人には 「海に飛び込まないで下さい」
日本人には 「みんなもう飛び込みましたよ」
中国人には 「おいしそうな魚が泳いでますよ」
北朝鮮人には 「今が亡命のチャンスですよ」
大阪人には 「阪神が優勝しましたよ」と伝えた。




参考文献
デイヴィッド・マクレイニー (2011) 思考のトリック 脳があなたをダマす48のやり方 二見書房

【心理学的に考えた】 韓国人は嘘つきか? ~従軍慰安婦・旭日旗問題~

「韓国人は日本人の671倍嘘つきである」

嫌韓ネタを扱っているサイトや本では、よく見かけるフレーズではないだろうか。
671倍の嘘をつく。・・・・・・ちょっと想像ができない。

ある日本人が1つ嘘をつく間に、ある韓国人は671個もの嘘をついているということだろうか?
それではもう韓国人の話には真実を挟む余地がなくなってしまう。

あるいは、日本人は671日に1回嘘をつくのに対し、韓国人は毎日1度嘘をついているという話か?
韓国では毎日がエイプリルフールで、日本では4月1日が2年に1回しか来ない。
エイプリルフールネタを楽しんでいる人たちには物足りなくなりそうだ。

いやいや、量ではなく質的な話かもしれない。
日本人のつく嘘の、671倍強力な嘘を韓国人はつくのだ。
・・・・・・何だそれ?

この話の元ネタは、2000年の日本と韓国における偽証罪の数が基準なのだそうだ。
2000年、韓国では1198人が偽証罪で起訴され、対する日本で起訴されたのは5人。
ここから人口差を考慮して計算すると、「韓国人は日本人の671倍嘘つき」という話ができあがる。
 →http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/3250/noriasa/k2.htm



日本人との比較は置いておくとして。
実際、韓国人のつく嘘の話はよく耳にする。
アイ・アム・ザパニーズ(海外で事件を起こしたら日本人だと名乗れ)」などは、既に嘘をつくことが韓国人の行動パターンに組み込まれてしまっている代表例だろう。

そして、韓国人の嘘として真っ先に思い浮かぶのが、自称・元従軍慰安婦の証言ではないだろうか。

ここで、自称・元従軍慰安婦による、明らかに事実と異なっている証言を挙げていきたい。
・・・・・・挙げていきたいが、面倒なので他にまとめて下さっているサイトなどを各自で探して参照して頂きたい。
拉致された状況やその時の年齢、下手をすれば生まれた年すら(?)間違っていたりするので、いちいち挙げているとキリがない。
終戦後も日本軍の従軍慰安婦をやっていたという証言などは、こっちの心が折れそうになる・・・。


気を取り直して。
私が注目したいのは、「ジープ」や「クリスマス」が出てくる証言だ。
「慰安婦」と合わせてググるとこちらのサイトが上に出てきたので、そこから引用すると。


>↓以下が、キム・ボットンと言う上の写真の右側の
>ニセ慰安婦の証言です。

>-----------------------
>故郷の『朝鮮の村にジープに乗った日本軍』がやってきて誘拐され、 >『日本軍のヘリコプター部隊』の基地に連れていかれ、 >『クリスマス休暇中の日本兵』にコキ使われるなど >『昭和23年まで』解放されませんでした
>日本兵には毎日のようにブーツで』けられるなどイジメられましたが
>日本兵たちは全員『8発も連射できるライフル』を持っているので、
>逃げたくても、とても逃げきれないと思いました。
>『ペニシリンを数週間ごとに』注射されて痛い注射を繰り返しうたれました
---------------------------
>日本軍ではないようニダ 



と、まぁ、ご覧のありさまである。
余りにもデタラメ過ぎて、こんな証言をする自称・元従軍慰安婦の言葉など一切信用できないと考えざるを得ない。
そして、「やっぱり韓国人は嘘つきなんだな」と確信を強めることになる。

それにしても自称・元従軍慰安婦は何故このような、調べたらすぐ分かる嘘をついたのだろうか?
同情さえ引いておけば細部の矛盾は気にせず、鵜呑みにしてくれるとでも考えたのだろうか?(韓国国内ならその通りかもしれない)
何も考えずに思うがまま適当なことを言っただけの、単なる馬鹿なのだろうか?


ここで、自称・元従軍慰安婦の証言を、「本人の記憶」という点に焦点を当て、心理学的に考えてみたい。
結論から言えば、「自称・元従軍慰安婦は嘘をついていない」という可能性があるのだ

――いや、上の例を見ただけでも、自称・元従軍慰安婦が詐欺師であるのは明白だ。
――客観的に考えて、自称・元従軍慰安婦が嘘をついていないなど考えられない。

と、思うだろうか。
しかし、事実と証言が食い違い、客観的に聞けば明らかに嘘だと感じたとしても、当人の主観的には真実である場合もある。

証言の情報源は、証言者自身の記憶だ
しかし、記憶は忘却するその時まで、体験や見聞きした情報を完全・完璧にそのままのカタチで保存できるものではない。
むしろ、容易に書き換えられていくものなのだ。


記憶の書き換えの研究では、何と言ってもLoftusが有名だ。
Loftusは自動車の衝突事故の映像を被験者に見せ、事故を起こした車がどれくらいのスピードを出していたと思うか尋ねた。
この時、Loftusはいくつかの被験者グループに対して、それぞれ異なった質問の仕方をしている。

「激突した時、車のスピードはどれくらいでしたか?」
「衝突した時、車のスピードはどれくらいでしたか?」
「ぶつかった時、車のスピードはどれくらいでしたか?」
「当たった時、車のスピードはどれくらいでしたか?」
「接触した時、車のスピードはどれくらいでしたか?」

すると、衝突の表現をより強い言葉を用いて質問されたグループほど、事故を起こした時のスピードが速かったと答える傾向にあった。
更に、「ガラスが割れるのを見ましたか?」と尋ねられると、「激突した」と表現されたグループは、「見た」と答える割合が他のグループの2倍になった。
しかし、実際に被験者が見た映像では、ガラスは割れていなかったのだ。

これ以外にもLoftusは質問時に用いた表現から受ける印象や、または誤った情報を与えることなどによって、人の記憶を書き換えることに成功している。
そして心理学の研究では、記憶が書き換えられるケースが他にいくつも見つかっているのだ。

・ 細部を忘却していたり所々忘れている部分がある時、また他人に説明することが難しいことなどを話す場合、他の記憶や知識などで補って、無意識に納得できるストーリーを作り上げる【作話】
・ 言われてみれば当然だという話は、話を聞く前から知っていてたと思い込む【後知恵バイアス】
・ 固定観念や対象について抱いている印象(偏見)などに影響されて、それに関する記憶が書き換えられる
・ 注目していない情報は記憶に残らず、注意によって記憶は編集される
・ 過去の態度や行動が、現在のものと一貫して同じだったように考える【一貫性バイアス】



それでは、自称・元従軍慰安婦が「ジープで拉致された」という証言について、心理学的に考えてみよう。

Q:拉致をした車は本当にジープだったのか?
 →軍隊の車というとジープが連想されやすい。しかし、旧日本軍はジープを使っていない。

Q:拉致されたのは本当に太平洋戦争の時だったのか?
 →朝鮮戦争やベトナム戦争の時ならば、ジープを使う軍隊がいたかもしれない。慰安婦という言葉は、旧日本軍との結び付きが強いため、実際は他の軍の慰安婦だったのを勘違いしているのかもしれない。

Q:そもそも本当に従軍していたのか?
 →韓国に限った話でもないが、貧しい家庭の女性が売春婦になることは多かっただろう(韓国は今でも多いようだが)。自分の売春婦としてのストーリーに、旧日本軍に強制連行された従軍慰安婦のストーリーを合体させてしまったのではないか?

Q:根本的な話として、売春はしていたの?
 →そこから間違っていたのだとしたら、心理学の手には負えない。精神医学へどうぞ。


自称・元従軍慰安婦の証言を、日本が物証や状況証拠を用いて反論するとき。
韓国人は「被害者本人が言っているんだから間違いないニダ!」と言い返す。
しかし、被害者当人であろうが加害者であろうが、あるいは第三者であろうが、証言の情報源が記憶である以上、絶対的な信用を置くことはできないのだ。
ただし、自称・元従軍慰安婦の証言が事実と食い違う間違いだらけだったからといって、それで自称・元従軍慰安婦=詐欺師だと断言することもできない。
同時に、証言のほとんどがデタラメだということが、証言全てが間違っている証明にもならない。

結局、自称・元従軍慰安婦の証言に対して、確実に言えることはただひとつ。
証言は、アテにならないのだ。




一方その頃、韓国人は民族総出で新たな記憶の改竄に乗り出していた。
旭日旗問題である。

旭日旗は大日本帝国が使用した軍旗であり、それはつまり軍国主義の象徴であり、ナチスのハーケンクロイツと同等のもので、韓国人は見るだけで不快な想いをする。
だから旭日旗のデザインは使用してはいけないと、日本や韓国国内、更に欧米にまで働きかけている。

根本的な突っ込みどころとして、旭日旗が軍旗なら、ハーケンクロイツはナチス党の党旗だ。
ナチス・ドイツの軍旗は黒十字で、当時国防軍が使用していたが、これはプロイセンの時代から現在に至るまで使われている。
日本で、ドイツにおけるナチス党に対応するものは何だろう・・・大政翼賛会?(よく知らないが)
そもそもぽっと出のヒトラーが独裁していたナチス・ドイツと、1500年かそれ以上の歴史がある天皇家が君臨してきた日本とでは、全く事情が違うと思うのだが。

と、まぁ、ボロがいっぱい出てくるので呆れるばかりだが、それもそのはず。
韓国人の旭日旗アレルギーは、ホンの数年前に、しかも言い逃れのためにでっち上げられたものである可能性が極めて高い。

旭日旗問題の流れはこうだ。

2011年、サッカーのアジアカップで行われた日韓戦で、ゴールを決めたキ・ソンヨンがスタンドに向かって猿の真似をするパフォーマンス(日本人は猿だという人種差別)


問題視されたことで、「旭日旗を見てカッとなってやった」と言い逃れ。
ただし会場に旭日旗は確認できず、試合会場までの道中で見たのか、そもそも本当にどこかで旭日旗を見たのか、見たとして本当にカッとなったのかは不明。本人ですら、もう分からないかもしれない。



2012年、同じくサッカー日韓戦、ロンドン五輪3位決定戦にて。
試合に勝利した韓国選手のパク・ジョンウが「独島は我が領土」とハングルで書かれたプレートを掲げて走る。
オリンピックで政治問題を主張することはタブーなので騒動に。

韓国、「日本も旭日旗やそのデザインを使っている、あれは政治的主張ではないニカ!?」と主張。

旭日旗狩りへ・・・


おそらく彼らの頭の中では、「昔から旭日旗を見ると気分が悪かったニダ!」というストーリーが出来上がっているのだろう。
それが本当なら、少なくとも韓国国内には旭日デザインを用いたものは無さそうなものだが。
このほど、韓国釜山市民公園にある歴史館の天井が旭日旗デザインだったため、変更することになったらしい(http://www.wara2ch.com/archives/8231376.html)。
調べたところ、公園自体はほんの1年前につくられたばかりとのこと。
時系列を見れば、韓国の旭日旗アレルギーは明らかに旧日本軍とは関係ない。
しかし、自分たちが納得できるストーリーを組み立てるために、彼らはいつだって必死である。

ストーリーを作るのが好きな割りには、ノーベル文学賞を取れないのが不思議だ。
いや逆に、こんな矛盾にあふれたストーリーばかり作っているから、永遠に手が届かないのかもしれない。


参考文献
デイヴィッド・マクレイニー (2011) 思考のトリック 脳があなたをダマす48のやり方 二見書房

2015年2月11日水曜日

日韓友好は心理学的にありえない

先週、こんな記事を目にした。

『魚住昭氏「あふれる嫌韓嫌中ヘイト本、韓国には反日本がないのに…ヘイト本が消える日はいつやって来るのだろう」』
http://www.wara2ch.com/archives/8041639.html


いやいや、嘘を吐くなよ・・・。
日本の嫌韓本は『マンガ嫌韓流』の大ヒットに始まるわけだが、それに対抗して韓国は『マンガ嫌日流』を出版している(しかも2種類)。
それ以前に、国が指定している教科書からして日本に対するヘイト本ではないか。

私は韓国の本屋に行ったことがないので実態は知らないが、元記事の筆者の話をとりあえず信じるとしよう。
韓国には(あまり)反日本を置いていないのかもしれない。
しかし、それが「韓国は反日本を作らない」ということを必ずしも意味するわけではない。
単純に考えて、「本屋が売れないと判断したから置いていない」だけかもしれないのだ。

では、何故韓国の本屋は反日本を置かない(買ってもらえない)のか。

ひとつは娯楽性に乏しいこと。
韓国は知れば知るほど嫌いになる国だが、同時に笑いも提供してくれる(笑韓)。
残念ながら(?)、日本には笑いのタネにできるような側面はそう多くない。
本屋で日本に関する本のコーナーを作ろうとすれば、日本から学ぶべき点について書かれた真面目な本に自然と偏ってしまうのだろう。
反対に、日本の韓国コーナーに嫌韓本が多いのは、韓国から学ぶべきものがなく、ドラマや音楽に関する本もオワコンとなって淘汰された結果だろう。

そしてもうひとつは、日本における嫌韓と違い、韓国では反日を目にする機会にあふれているからだ。
韓国人は教育の場面で教科書(ヘイト本)や教師(ヘイトスピーカー)から反日を学ぶ。
また、韓国の新聞や大統領のスピーチなどが、既に日本に対するヘイトスピーチである。
「旧日本軍が韓国の若い女性を強制連行して性奴隷にした」という主張など、根拠がなくなった今、ヘイトスピーチの最たるものだろう。
つまり、韓国に反日本がないのだとすれば、それはわざわざ本として出版するまでもない(需要もない)から。
もしくは、実際には反日本はあるが、それは普通の本の中にヘイトスピーチが自然と混じっているだけなのではないかと考えられる。



韓国人は教育や政治、人との関わりといった社会生活の中で、自然と反日が身につくようになっている。
反日行動には、「日本を嫌う」という広義の意味だけではなく、「慰安婦ハルモニに同情する」とか「併合時代を悔しいと思う」といったものも含まれよう。
今回は心理学的な視点から、韓国における反日と日本における嫌韓、そして日韓関係について考えてみたい。


1. 反日を学習する韓国人

韓国人はまず、学校教育において反日を学ぶ。
教科書自体が日本に対して批判的に記述されているという面もあるが、
教師によってはより積極的に反日を教えこんでいるケースもあるようだ。
子どもたちが描いた反日絵画展は、その最たるものだろう。
http://shiratorijun.blog4.fc2.com/blog-entry-22.html

学校の外に出ても、メディアの報道や政治家の発言、あちこちで反日が飛び交っている。
ノムたん政権時に作られた、いわゆる親日罪(日韓併合時に親日だった韓国人とその子孫に対して、その財産を没収する)では、反日が法にまで影響を及ぼしていることを示している。

ある集団において、個人がそれに従うことを期待されている行動や判断の基準のことを、「社会的規範」と言い、人は基本的に規範に従おうとする。
同じ集団に属する人々は、他の人も自分と同じ規範に従って行動すると考えているため、規範に反するような行動に対しては否定的な反応(驚き・当惑・怒り・制裁)を示す。
親は子どものとる行動に対して、「正しい行動を褒め」、「間違った行動には怒る」、その中で人は「正しい行動」、つまり規範に沿った行動をとることを学習(条件づけ)するのである。
やがて成長し、所属する集団が家族から学校・友人、大人になって会社員になると、その集団の中でまた異なる規範を学ぶ。
これは集団ごとに規範が異なるのと同時に、子ども・学生・会社員では、社会的役割によって期待される行動が異なるからでもある。
その中で人は、同じ集団の仲間から嫌われないよう、好かれるよう、規範に沿った行動をしなければならない。

規範には、法律のように明文化されているものもあれば、自分たちが暮らす社会や所属する集団の中で何となく共有されているような価値観といったものも含まれる。
明文化されていない規範は、集団の中で実際に様々な行動をとり(もしくは他者の行動を観察し)、その行動に対して他者がどのような反応をするか(肯定的か否定的か)を確認することで、集団が共有している規範を理解する必要がある。
この時、具体的にどのような人の行動(あるいは反応)を参考にするだろうか?
例えば、自分が魅力的に感じる人(もしくは反面教師としてその逆)の行動を模範にする。
また、権威ある人の影響力も大きいだろう。
子どもなら親、学生なら先生、会社員なら上司など。
権威者には服従する傾向がある。

韓国の場合、メディアや政治家、親や教師など、権威者が反日を刷り込んでくる。
親日的な行動は批判の対象となり、反日行動が動機づけられる。
反日は韓国人として期待される役割であり、反日は韓国という社会における規範となっていると考えられるのだ。



2. 反日韓国人を嫌う日本人

対人認知において、人は自分が好きな人からは好かれていると考え、自分が嫌っている人からは嫌われていると考える傾向があるという。
また、自分のことを好きでいてくれる人を好きになり、自分を嫌っている人を嫌う傾向がある。

更に攻撃行動の研究において、自分や自分の属する集団に対して悪意を持つ他者に、人は防衛的攻撃反応が動機づけられるという。

対人関係における感情表出の研究でも、相手の怒りが自分の怒りを誘発するとされている。

つまり、韓国の反日に対して、日本人が怒り、韓国人を嫌うのは、心理学的に当然なのである



3. 韓国を擁護する日本人と、彼らへの反応

朝日新聞や毎日新聞、NHKやフジテレビ、そして有田ヨシフのような政治家・知識人。
日本国内には執拗に韓国を擁護しようとする勢力が存在している。

日本のインターネット上では、彼らに対して極めて批判的な立場がとられている。
これは韓国の反日と同様に、日本のインターネット上では嫌韓が社会的規範になっていると考えられる。
そのため、規範から逸脱した日本人は売国奴などとバッシングを受けることになる。
しかし、なぜ彼らはそうまでして韓国を擁護しようとするのだろうか?

人間の態度に対する説明として、均衡理論がある。
これは三角形の頂点に自分・他者・対象を置き、それぞれの関係を肯定的(+)か否定的(-)かで示して、3者の関係を掛けあわせてトータルが「+」になれば均衡した状態、「-」になれば不均衡な状態となる。
不均衡な状態は不快感を抱かせるため、均衡状態になるように関係を変えなければならない。

例として、「ピザが好きだが、太るので食べたくない」という葛藤状態をあげよう。
まず、「自分はピザが好き」なのでこの関係は「+」である。

次に、体重(痩せたいor体型を維持したいという願望)は自身のことなので、自分と体重の関係も「+」とする。
最後に、「ピザを食べると太る」ので、両者の関係は「-」である。
結果、「+」×「+」×「-」=「-」となり、これは不均衡な状態である。
これを均衡状態にするには、いずれかの関係を変えなければならない。
その方法は3つある。
一、『自分とピザを「-」にする』、つまりピザを嫌いになれば良い。
ニ、『ピザと体重を「+」にする』、つまりピザを食べても太らなければ良い(運動するとか、食べても太らないピザ?を食べるとか)
三、『自分と体重を「-」にする』、つまり逆に考えるんだ、「太っちゃってもいいさ」と。

では、実際に韓国を擁護する日本人(長いので「サヨク」と呼称する)の場合を考えてみよう。
まず、「サヨクと韓国は深い関係」であると予想される(少なくとも否定的な感情は持っていないだろう)ので、この関係は「+」である。
次に、日本人と韓国の関係はこじれているので、ここは「-」である。
最後に、「サヨクは日本人」なので、同一集団とみなされる両者の関係は「+」である。
結果、「+」×「-」×「+」=「-」となり、これは不均衡な状態である。
この場合の解決方法は、以下の3つである。
① 『サヨクと日本人を「-」にする』、つまり嫌韓な日本人を「差別主義者」と呼んで差別し、自分とは違う存在だと考えることで、自分との同一化を解消すれば良い。
② 『サヨクと韓国を「-」にする』、つまり自分も他の日本人と同様に韓国を嫌ってしまえば良い。
③ 『日本人と韓国を「+」にする』、つまり日本人を親韓にすれば良い。

ここで言う③のパターンこそが、今回問題とした「サヨクによる韓国擁護行動」の説明となる。
同時に①のパターンもよく見られるが、これは③がうまくいかないために、対処療法的に均衡状態を保とうとした結果ではないかと考えられる。
・・・その場合、もし万一、日韓が仲直りした時には、日本人と自分を切り離したサヨクはどう均衡をとるのだろうか?w
ちなみに、②のパターンの場合はサヨクとしての存在意義を失って、表舞台から姿を消すことになるだろう(そうして消えていった元サヨクも多いのかもしれない)。


ところで、サヨクが③を実現しようとすれば、日本人の態度を嫌韓から親韓に変えるよう説得しなければならない。
メッセージ学習説によれば、説得の成功・失敗には
「送り手(信憑性が高いor魅力的な人だと成功しやすい)」、
「内容」
「媒体」
「受け手」
という4つの要因が関わるという。
現状、どの要因も満たせるとは思えない。

また、強い態度には説得に対する抵抗が生じる。
抵抗には、
「リアクタンス(説得に応じない)」
「疑惑(警戒する)」
「吟味(説得内容を徹底的に検討し、批判する)」
「慣性(均衡状態にあるならば、態度の現状を維持する)」
といった種類のものがあるが、下手な説得は逆効果となる(より嫌韓が強くなったり、嫌韓日本人が増えたりする)。
実際に、サヨクは警戒され、嫌韓ネタは大体が事実であるためサヨクの主張には説得力がなく。
日本人からすれば、韓国とは互いに嫌い合っているので、均衡がとれた状態である。
説得は絶望的であると私は見ている。


なぜサヨクは、絶望的な親韓説得を続けるのだろうか?
また、これだけ韓国面が広く知れ渡るようになった現在でなお、韓国への好きを諦めないのだろうか?

これは認知的不協和理論で説明できる。
ある信念(「韓国はいい国だ」、「韓国人は素晴らしい」、「日韓は友好的であるべきだ」)を持っている人が、それに反する情報(嫌韓ネタ、日本人の嫌韓)を手に入れると、不協和が生じる。
均衡理論と同様、この不協和は解消しなければならないものである。
しかし、信念を破棄できない場合、どうにか協和できる部分を探して、不協和を低減しようとする(「悪いのは一部の韓国人だ」、「韓国を嫌っているのは一部の差別主義者だ」)。
また、態度に反する行動を取ってしまった時には、その行動と辻褄が合うように態度を変化させる(記者「韓国はおかしな国だと思うけど、上から韓国押しの記事を書くように言われた(´・ω・`)」→「韓国って良い国だなぁ @∀@)」)。
つまり、これまで散々韓国を持ち上げてきた結果、マスゴミや知識人は韓国が好きになっている
あるいは、「自分が韓国を好きでないと自分の過去の行動と折り合いがつけられない」ため、韓国を擁護することで現在の自分と過去の自分との一貫性を保とうとしているのかもしれない。



4.日韓友好は心理学的にありえない

均衡理論で言えば、日本と韓国は現在、互いに嫌い合うことで均衡状態を保っている
ここで日本人が反日な韓国人を好きになったりすれば、不均衡な状態となり、不快な感情を抱くことになるだろう。
日韓の歩み寄りを促す声がアメリカなどから出ている。
しかし、均衡理論から言って、日本からの歩み寄りは不可能だ(だからアメリカ側も「韓国側に問題がある」と述べるようになった)
どちらかが歩み寄らなければならないのだとすれば、それは先に一方的に嫌悪感情をぶつけてきた韓国の方である。

しかし、反日が社会的規範となっている韓国にそれは難しい。
一般個人や政治家、専門家などが態度を変えれば、裏切り者として制裁の対象となる
法で裁けずとも、集団の圧力がそれを許さない。
大統領が親日行動を取れば支持率が低下し、反日行動をとれば支持率が回復するのがわかりやすい例だ。

心理学的に考えて、日韓関係の改善は厳しい。
ここは朴槿恵大統領の提案に乗るべきだ。
「1000年恨む」と言うのだから、1000年断交しようではないか。
1000年もすれば、規範も態度もみんな忘れて、良好な関係を築けるかもしれない。


――日韓基本条約の締結から50周年の記念にサヨナラを――

2015年1月31日土曜日

【ISIS人質事件】 責任を取らせる法整備をしては?

ISISの人質になっている邦人2名。
その解放にテロリストが要求を出してから10日が経った。
当初の「1人につき1億ドル」から「死刑囚の解放」へと要求は変化したが、未だに膠着状態である。

その感、日本国内の世論に何か変化があっただろうか?

当初は「自己責任」という言葉に溢れていたが、最近はあまり耳にしなくなったように思える。
これは、「人質を解放して欲しい」「助かって欲しい」という同情的な方向に変わったということだろうか?
テレビを見ていると、政府は絶対に救出するという意志を前面に出し、番組作りそのものが「無事に帰ってきて欲しい」という良心に基づいたものになっている。
また、NHKのツイッターと連携した番組では、「助かって欲しい」という意見がひっきりなしに表示されていた。

政府やマスコミの姿勢に流されて、当初は「自己責任」と突き放していた人、関心の薄かった人が、同情意見に変わっているのかもしれない。
一方で、初めから呆れ返っていた人は完全に関心を失い、意見を発しようとしなくなった、「サイレントマジョリティ」となっているとも考えられる。
もしくはNHKに寄せるツイッターなど、自己責任論者の意見は番組から弾いているのかもしれない。

そんな中、デヴィ夫人が爆弾を投下した。
後藤氏に対して「自決するべき」とブログで発言したのだ。
これに対する反応としては、当のブログや各ネットサイト、またはマスコミによって差があるかもしれない。
しかし、私が主に参考にしている痛いニュースによれば、「同意見だが公に言うべきではない」というのが多数派のようだ。

ちなみに、私も自決するべきだと考えている。
「生きて虜囚の辱めを受けず」とまでは言わないが、国や世界にかける迷惑を考えれば仕方があるまい。
『たったひとつの冴えたやりかた』だ。
フィクションのように奥歯に毒を仕込んでおいたり、心停止したらその情報がどこかに送られるといった仕掛けがあれば便利なのだが。

ともかく、倫理観や感情論、常識的判断によって、無謀な人質に同情したり、それに反する意見を封殺することが正しいとは思えないのだ。



ここまでは事件に対する世論や私見について述べた。
ここからが本題で今後、同じような事件(危険地域へ立ち入り拘束される)が起こった場合の対応について考えていきたい。

まず現在、外務省は危険地域に対して渡航を自粛させるよう情報を発信している。
http://www.anzen.mofa.go.jp/
レベル1:渡航・滞在に当たり特別な注意が必要な場合
レベル2:渡航の是非を検討し、渡航する場合は十分な安全措置を講ずることを勧める場合および、不要不急の渡航を控えるように勧める場合
レベル3:渡航の延期を促し、現地滞在の邦人は当該国地域から退避の検討や準備を促す場合
レベル4:現地滞在の邦人は安全な周辺国へ避難するか日本へ帰国することを勧告する場合

これが出されたところには行かなければ済むという話なのだが…。
残念ながら、強制的に渡航を禁止したり、渡航者を罰することはできない。
これは憲法22条の移動の自由に基づくもので、近代国家としては制限することは難しい。

では、どうすれば良いのだろう?

ひとつは、テロと徹底的に戦うという道だ。
戦場報道・ボランティアなどで拘束された国民は、何が何でも救出する。
しかし、そのためには軍の整備が不可欠だ。
これは、いざとなれば軍事力をもって敵を制圧する必要が出てくるというのがひとつ。
そして、これまでのようなバックアップではなく、前線に出て戦うとなれば、911のような報復の恐れがあるため、防衛を固める必要があるというのがひとつである。

この場合、9条の解釈が難しいところだ。
人命救助のため、海外へ侵攻することは自衛の範囲と言えるだろうか?
言えるのならば、大東亜戦争=侵略戦争という見解は完全に撤回してしまわないと辻褄が合わなくなりそうだ。
しかしそこまで行ったら、9条を撤廃するところまで行くしかないだろうと思われる。

良い面としては、いざとなれば戦争可能ということで、戦場ジャーナリストやボランティアの活動がしやすくなるのではないか、という点だ。
この活動が活発化すれば、情報の需要が増すことで戦場ジャーナリストは多大な利益を得られるかもしれない。
現在の「自己責任論」に対し、専門家は海外における戦場ジャーナリストの地位の高さを主張している。
日本では必要性があまりないために地位も利益も小さいようだが、これが改善されることになるだろう。

一方、悪い面としては…。
本当に戦争するの…?
ガチで軍事力固めるのには、どうしても抵抗がある。



そこで、第二の道を示そう。
それは、自己責任を徹底化するというものである。

大使館職員や、危険地以外から拉致されてしまうというケースは例外として。
危険地に渡航して拘束された人間には、責任をとってもらう。

身代金の支払いやテロリスト仲間の釈放といった、テロリストに利する要求は決して呑まないが、それ以外ならあらゆる外交手段を使って救出する。
しかし、身代金の支払いに応じなくとも、救出には費用がかかる。

例として、2004年のイラク三馬鹿事件を上げよう。
参考サイトによれば、この事件により日本が被った被害は、

 〉 救出の費用(税金) 20億円
 〉 ヨルダンからの債務免除要請額(税金) 2000億円
 〉 株価暴落による損失 13兆円
 〉 3人がイラクで得た自己満足 Priceless

 〉 国民一人当たり13万円程度の損害を被ったことになる。

だ、そうだ。
今回の後藤氏も「自己責任で行ってくる」と言い残しているが、どうやって株価まで自己責任で償おうというのか。
国会も閣僚が途中退席したりで、相当に国益を損なっているのだが。

株価のような計算が難しそうなものはさすがに除外するとしても。
救出費用くらいは税金ではなく、自己負担でお願いしたい。
災害救助と違い、予期できる災難なのだから、これくらいは仕方がないだろう。

というわけで。
拘束されたら、20億円払ってもらう。
救出に奔走したけれど、結果的に死んだ場合でも、遺族に払ってもらう。

こんな抑止力を作ってしまえば、危険地に行く馬鹿はいなくなるのではないだろうか。
もし行くとしても、奥歯に毒と、死んだら即座に知らせる仕掛けが必須だ。
日本はこれまで通り安全圏から、テロに苦しむ人達に金をばら撒いて支援します。

2015年1月9日金曜日

【フランス紙襲撃テロ事件】 報道の自由の許容範囲 ~ペンでは剣を防げない~

1月7日、パリの新聞社シャルリー・エブドがイスラム過激派に襲撃されるという事件が起こりました。
この事件で亡くなられた警察官、もしいれば無関係だったはずの市民の方に、心よりお悔やみ申し上げます。


事件の概要としては、

襲撃を受けたシャルリー・エブド社は、風刺画を使う左翼新聞社。
無神論的な立場のため、イスラムやその他あらゆる形態の宗教も風刺の対象にしていた。
編集方針は「様々な左派の見解、さらには政治参加に無関心な人の見解」を反映することだとのこと(ソースはwiki)

そもそもの事の発端は2005年、デンマーク日刊紙によるムハンマド風刺漫画掲載問題に始まると考えられる。

翌2006年、シャルリー・エブドがデンマークの雑誌に掲載されたというムハンマドの風刺画を転載(上記のものと同一かは不明)。
それから何度となくイスラームの風刺画が掲載し続けた。

2011年、シャルリー・エブドのオフィスに火炎瓶が投げ込まれ全焼。
2012年にはフランス当局からの警告を無視して風刺画を掲載した。

彼らの言い分は、「報道の自由」

フリーダムにイスラームを風刺し続けた結果、編集者など重要人物が集まる会議の日に襲撃され、殉職されたということだ。



この事件に対して、現地フランスやアメリカ、そして日本など各国が抗議の声を上げた。

「卑劣なテロは許せない」
「報道の自由に対する冒涜だ」

確かに、テロは絶対に許されない行為である。
これは基本なので掘り下げない。

問題は、果たしてシャルリー・エブドの風刺画が「報道の自由」として許容される範囲におさまるものだったのかどうかという点だ。

そもそも偶像崇拝が禁止されているイスラームに対して、ムハンマドの風刺画を描くこと自体がタブー中のタブーである。

例えば、異文化圏の知人がいたとして、それを料理でもてなすという場面を想像してみよう。
ムスリムの知人に、豚肉を出したとしたら?

――ブチ切れるだろう

インド人に牛肉、シーシェパードに鯨、愛犬家に犬鍋
宗教的・文化的価値観において、タブーとされるものは溢れている。
そして常識があれば、タブーを、相手の地雷を踏む行為は絶対に避けて当然なのだ。

では、シャルリー・エブドには常識が欠けていたのだろうか?
2012年に風刺画を掲載した際、編集長のカボニエール氏は以下のように語ったという。

「ムハンマドは私にとって聖なる存在ではない。イスラム教徒がこの漫画を見て笑わないのは仕方がない。しかし、私はフランスの法の下に生活しているのであって、コーランに従って生きているわけではない」

決してムスリムは納得しないだろうが一応は正論だ。
なので、百歩譲ってムハンマドの偶像問題は良しとしよう。

次の問題は、実際に掲載されたムハンマドの風刺画だ。








・・・・・・これは報道の自由とか言う問題なのか?
私にはイスラームに喧嘩を売っているようにしか見えない。
そして近年流行している言葉で、彼らの報道について一言で語るならば。

ヘイトスピーチ

こんなもの、それ以外のなにものでもない。
在特会などのヘイトスピーチを批難するアメリカや日本政府が、なぜシャルリー・エブドを「報道の自由」の体現者として擁護するのか?
テロを否定したいがあまり、他の問題との整合性が取れていないではないか!


今回の事件、私から見れば

テロリストとマスゴミ(もしくは差別主義者)との抗争

である。






今回の事件では2名の警官という尊い命が失われてしまった。
この事件から教訓とすべきことは何だろうか?


1.自由には責任が伴う

ここまで散々シャルリー・エブドを批判してきた私だが、報道したこととその内容自体が間違いだとは考えていない。
名誉毀損なのでアウトだろうと思うところはあるが、相手はテロリストなのでどっちもどっちである(ムハンマド風刺はテロリストではないムスリムも傷付けるかもしれないが)
しかし、自由(フリーダム)に報道するのであれば、その影響についての責任は負わなければいけない。
今回、彼らは武力による報復という形で、代償を支払った。
まさに因果応報。
テロリストに喧嘩を売ればこうなることは想像できて然るべきことなので、悔いは無いだろう。
あったら死しても救いようがない。



2.ペンでは剣を防げない

「ペンは剣よりも強し」――報道は、時に武力よりも人を傷つける
しかし、攻撃力の高いペンも、防御に回ると実に脆いことが明らかになった。
そりゃあ、ペンで剣を受け止めたりすれば真っ二つになるだろうから、当然と言えば当然だが。

暴力をかざす相手には、こちらも暴力か、何かしらの抑止力を持たなければならない。
軍事国家との外交と同じことが、報道においても言えるのだ。

もちろん、いちメディアが武装化したらそれこそ大事になる。
現実的には、警察や警備会社の厄介になるしかないのだが。
その前に、自重することを覚えて欲しい。
どこまでなら言ってもいいか、どこまで言ったら危険か。
相手と、自分たちの力。
それを見極めた上で報道しなければ、また善良なる警官が犠牲になってしまうだろう。


報道内容が事実であるならば、何を言うのも自由だ。
しかし、自殺行為は自己責任で行って欲しい。





参考にしたページ
http://jp.wsj.com/articles/SB11685468879700404194004580386180553896628
http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/07/4-cartoonists-killed-charlie-hebdo_n_6433584.html
http://mindhack2ch.com/archives/20187154.html