2015年1月31日土曜日

【ISIS人質事件】 責任を取らせる法整備をしては?

ISISの人質になっている邦人2名。
その解放にテロリストが要求を出してから10日が経った。
当初の「1人につき1億ドル」から「死刑囚の解放」へと要求は変化したが、未だに膠着状態である。

その感、日本国内の世論に何か変化があっただろうか?

当初は「自己責任」という言葉に溢れていたが、最近はあまり耳にしなくなったように思える。
これは、「人質を解放して欲しい」「助かって欲しい」という同情的な方向に変わったということだろうか?
テレビを見ていると、政府は絶対に救出するという意志を前面に出し、番組作りそのものが「無事に帰ってきて欲しい」という良心に基づいたものになっている。
また、NHKのツイッターと連携した番組では、「助かって欲しい」という意見がひっきりなしに表示されていた。

政府やマスコミの姿勢に流されて、当初は「自己責任」と突き放していた人、関心の薄かった人が、同情意見に変わっているのかもしれない。
一方で、初めから呆れ返っていた人は完全に関心を失い、意見を発しようとしなくなった、「サイレントマジョリティ」となっているとも考えられる。
もしくはNHKに寄せるツイッターなど、自己責任論者の意見は番組から弾いているのかもしれない。

そんな中、デヴィ夫人が爆弾を投下した。
後藤氏に対して「自決するべき」とブログで発言したのだ。
これに対する反応としては、当のブログや各ネットサイト、またはマスコミによって差があるかもしれない。
しかし、私が主に参考にしている痛いニュースによれば、「同意見だが公に言うべきではない」というのが多数派のようだ。

ちなみに、私も自決するべきだと考えている。
「生きて虜囚の辱めを受けず」とまでは言わないが、国や世界にかける迷惑を考えれば仕方があるまい。
『たったひとつの冴えたやりかた』だ。
フィクションのように奥歯に毒を仕込んでおいたり、心停止したらその情報がどこかに送られるといった仕掛けがあれば便利なのだが。

ともかく、倫理観や感情論、常識的判断によって、無謀な人質に同情したり、それに反する意見を封殺することが正しいとは思えないのだ。



ここまでは事件に対する世論や私見について述べた。
ここからが本題で今後、同じような事件(危険地域へ立ち入り拘束される)が起こった場合の対応について考えていきたい。

まず現在、外務省は危険地域に対して渡航を自粛させるよう情報を発信している。
http://www.anzen.mofa.go.jp/
レベル1:渡航・滞在に当たり特別な注意が必要な場合
レベル2:渡航の是非を検討し、渡航する場合は十分な安全措置を講ずることを勧める場合および、不要不急の渡航を控えるように勧める場合
レベル3:渡航の延期を促し、現地滞在の邦人は当該国地域から退避の検討や準備を促す場合
レベル4:現地滞在の邦人は安全な周辺国へ避難するか日本へ帰国することを勧告する場合

これが出されたところには行かなければ済むという話なのだが…。
残念ながら、強制的に渡航を禁止したり、渡航者を罰することはできない。
これは憲法22条の移動の自由に基づくもので、近代国家としては制限することは難しい。

では、どうすれば良いのだろう?

ひとつは、テロと徹底的に戦うという道だ。
戦場報道・ボランティアなどで拘束された国民は、何が何でも救出する。
しかし、そのためには軍の整備が不可欠だ。
これは、いざとなれば軍事力をもって敵を制圧する必要が出てくるというのがひとつ。
そして、これまでのようなバックアップではなく、前線に出て戦うとなれば、911のような報復の恐れがあるため、防衛を固める必要があるというのがひとつである。

この場合、9条の解釈が難しいところだ。
人命救助のため、海外へ侵攻することは自衛の範囲と言えるだろうか?
言えるのならば、大東亜戦争=侵略戦争という見解は完全に撤回してしまわないと辻褄が合わなくなりそうだ。
しかしそこまで行ったら、9条を撤廃するところまで行くしかないだろうと思われる。

良い面としては、いざとなれば戦争可能ということで、戦場ジャーナリストやボランティアの活動がしやすくなるのではないか、という点だ。
この活動が活発化すれば、情報の需要が増すことで戦場ジャーナリストは多大な利益を得られるかもしれない。
現在の「自己責任論」に対し、専門家は海外における戦場ジャーナリストの地位の高さを主張している。
日本では必要性があまりないために地位も利益も小さいようだが、これが改善されることになるだろう。

一方、悪い面としては…。
本当に戦争するの…?
ガチで軍事力固めるのには、どうしても抵抗がある。



そこで、第二の道を示そう。
それは、自己責任を徹底化するというものである。

大使館職員や、危険地以外から拉致されてしまうというケースは例外として。
危険地に渡航して拘束された人間には、責任をとってもらう。

身代金の支払いやテロリスト仲間の釈放といった、テロリストに利する要求は決して呑まないが、それ以外ならあらゆる外交手段を使って救出する。
しかし、身代金の支払いに応じなくとも、救出には費用がかかる。

例として、2004年のイラク三馬鹿事件を上げよう。
参考サイトによれば、この事件により日本が被った被害は、

 〉 救出の費用(税金) 20億円
 〉 ヨルダンからの債務免除要請額(税金) 2000億円
 〉 株価暴落による損失 13兆円
 〉 3人がイラクで得た自己満足 Priceless

 〉 国民一人当たり13万円程度の損害を被ったことになる。

だ、そうだ。
今回の後藤氏も「自己責任で行ってくる」と言い残しているが、どうやって株価まで自己責任で償おうというのか。
国会も閣僚が途中退席したりで、相当に国益を損なっているのだが。

株価のような計算が難しそうなものはさすがに除外するとしても。
救出費用くらいは税金ではなく、自己負担でお願いしたい。
災害救助と違い、予期できる災難なのだから、これくらいは仕方がないだろう。

というわけで。
拘束されたら、20億円払ってもらう。
救出に奔走したけれど、結果的に死んだ場合でも、遺族に払ってもらう。

こんな抑止力を作ってしまえば、危険地に行く馬鹿はいなくなるのではないだろうか。
もし行くとしても、奥歯に毒と、死んだら即座に知らせる仕掛けが必須だ。
日本はこれまで通り安全圏から、テロに苦しむ人達に金をばら撒いて支援します。

2015年1月9日金曜日

【フランス紙襲撃テロ事件】 報道の自由の許容範囲 ~ペンでは剣を防げない~

1月7日、パリの新聞社シャルリー・エブドがイスラム過激派に襲撃されるという事件が起こりました。
この事件で亡くなられた警察官、もしいれば無関係だったはずの市民の方に、心よりお悔やみ申し上げます。


事件の概要としては、

襲撃を受けたシャルリー・エブド社は、風刺画を使う左翼新聞社。
無神論的な立場のため、イスラムやその他あらゆる形態の宗教も風刺の対象にしていた。
編集方針は「様々な左派の見解、さらには政治参加に無関心な人の見解」を反映することだとのこと(ソースはwiki)

そもそもの事の発端は2005年、デンマーク日刊紙によるムハンマド風刺漫画掲載問題に始まると考えられる。

翌2006年、シャルリー・エブドがデンマークの雑誌に掲載されたというムハンマドの風刺画を転載(上記のものと同一かは不明)。
それから何度となくイスラームの風刺画が掲載し続けた。

2011年、シャルリー・エブドのオフィスに火炎瓶が投げ込まれ全焼。
2012年にはフランス当局からの警告を無視して風刺画を掲載した。

彼らの言い分は、「報道の自由」

フリーダムにイスラームを風刺し続けた結果、編集者など重要人物が集まる会議の日に襲撃され、殉職されたということだ。



この事件に対して、現地フランスやアメリカ、そして日本など各国が抗議の声を上げた。

「卑劣なテロは許せない」
「報道の自由に対する冒涜だ」

確かに、テロは絶対に許されない行為である。
これは基本なので掘り下げない。

問題は、果たしてシャルリー・エブドの風刺画が「報道の自由」として許容される範囲におさまるものだったのかどうかという点だ。

そもそも偶像崇拝が禁止されているイスラームに対して、ムハンマドの風刺画を描くこと自体がタブー中のタブーである。

例えば、異文化圏の知人がいたとして、それを料理でもてなすという場面を想像してみよう。
ムスリムの知人に、豚肉を出したとしたら?

――ブチ切れるだろう

インド人に牛肉、シーシェパードに鯨、愛犬家に犬鍋
宗教的・文化的価値観において、タブーとされるものは溢れている。
そして常識があれば、タブーを、相手の地雷を踏む行為は絶対に避けて当然なのだ。

では、シャルリー・エブドには常識が欠けていたのだろうか?
2012年に風刺画を掲載した際、編集長のカボニエール氏は以下のように語ったという。

「ムハンマドは私にとって聖なる存在ではない。イスラム教徒がこの漫画を見て笑わないのは仕方がない。しかし、私はフランスの法の下に生活しているのであって、コーランに従って生きているわけではない」

決してムスリムは納得しないだろうが一応は正論だ。
なので、百歩譲ってムハンマドの偶像問題は良しとしよう。

次の問題は、実際に掲載されたムハンマドの風刺画だ。








・・・・・・これは報道の自由とか言う問題なのか?
私にはイスラームに喧嘩を売っているようにしか見えない。
そして近年流行している言葉で、彼らの報道について一言で語るならば。

ヘイトスピーチ

こんなもの、それ以外のなにものでもない。
在特会などのヘイトスピーチを批難するアメリカや日本政府が、なぜシャルリー・エブドを「報道の自由」の体現者として擁護するのか?
テロを否定したいがあまり、他の問題との整合性が取れていないではないか!


今回の事件、私から見れば

テロリストとマスゴミ(もしくは差別主義者)との抗争

である。






今回の事件では2名の警官という尊い命が失われてしまった。
この事件から教訓とすべきことは何だろうか?


1.自由には責任が伴う

ここまで散々シャルリー・エブドを批判してきた私だが、報道したこととその内容自体が間違いだとは考えていない。
名誉毀損なのでアウトだろうと思うところはあるが、相手はテロリストなのでどっちもどっちである(ムハンマド風刺はテロリストではないムスリムも傷付けるかもしれないが)
しかし、自由(フリーダム)に報道するのであれば、その影響についての責任は負わなければいけない。
今回、彼らは武力による報復という形で、代償を支払った。
まさに因果応報。
テロリストに喧嘩を売ればこうなることは想像できて然るべきことなので、悔いは無いだろう。
あったら死しても救いようがない。



2.ペンでは剣を防げない

「ペンは剣よりも強し」――報道は、時に武力よりも人を傷つける
しかし、攻撃力の高いペンも、防御に回ると実に脆いことが明らかになった。
そりゃあ、ペンで剣を受け止めたりすれば真っ二つになるだろうから、当然と言えば当然だが。

暴力をかざす相手には、こちらも暴力か、何かしらの抑止力を持たなければならない。
軍事国家との外交と同じことが、報道においても言えるのだ。

もちろん、いちメディアが武装化したらそれこそ大事になる。
現実的には、警察や警備会社の厄介になるしかないのだが。
その前に、自重することを覚えて欲しい。
どこまでなら言ってもいいか、どこまで言ったら危険か。
相手と、自分たちの力。
それを見極めた上で報道しなければ、また善良なる警官が犠牲になってしまうだろう。


報道内容が事実であるならば、何を言うのも自由だ。
しかし、自殺行為は自己責任で行って欲しい。





参考にしたページ
http://jp.wsj.com/articles/SB11685468879700404194004580386180553896628
http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/07/4-cartoonists-killed-charlie-hebdo_n_6433584.html
http://mindhack2ch.com/archives/20187154.html